



永禄3年(1560年)に尼子晴久が急死して尼子氏の勢力が衰退し始めると、九州戦線を受け持っていた隆元 は幕府の仲介を利用して大友宗麟と和議を結び、尼子討伐に全力を傾けるようになる。
しかし永禄6年(1563年)9月1日、尼子攻めに参加する途上、毛利氏傘下の国人である 備後の和智誠春 から の饗応の直後、安芸の佐々部で急死した。享年41。死因は食中毒とも毒殺とも言われ、訃報を耳にした際の 父・元就の悲嘆は尋常なものではなかったとされる。その後、元就は和智誠春・柚谷新三郎 ・湯谷又八 郎・又左衛門 ・赤川元保らを暗殺の疑いで誅伐、もしくは切腹に追い込んだ(但し、赤川元保に関してはそ の後冤罪の可能性が浮かび、後悔したとも)。
毛利家の家督は隆元の嫡男・輝元が継いだが、若年のために元就が実質的な当主として主導権をなおも握る こととなった。(Wikipedia)
毛利隆元の最期
今日は安芸と石見の国境探検をしました
ひとつ目の目的地は[毛利隆元逝去の地:安芸高田市高宮町]です。
ここは山間の集落で、大軍が宿営するような場所ではないと思いますが・・・
隆元急死の原因は何でしょうか?やはり毒殺でしょうか?