福島関所跡から木曽川を渡り対岸へ♪
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興禅寺~木曽義仲廟所~
源 義仲 (みなもと の よしなか )は、平安時代末期の信濃源氏武将河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍[注釈 1]となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
墓所
滋賀県大津市馬場の朝日山義仲寺
京都市東山区法観寺(首塚)
長野県木曽郡 徳音寺
(Wikipedia)

各地にある義仲の墓・・・この興禅寺には、遺髪墓があります★イメージ 2
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木曽義仲の墓
平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。 (Wikipedia)


評価が分かれる義仲ですが、最初に入京したことは「英雄」に値するでありましょう

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木曽家の墓
木曾氏(きそし)は、南北朝時代から室町時代後期にかけて信濃国南部の木曾谷を領した国人領主。戦国時代の木曾氏は、かつて治承・寿永の乱で木曾谷から発して上洛を果たした木曾義仲の子孫を自称した(義仲の子である義宗(夭折)の末裔と自称)。実際には本姓は藤原氏上野国沼田郷を拠点とした沼田氏藤原秀郷流)とされ、沼田氏の当主の沼田家国(伊予守)の子で、義仲の義弟(義仲の側室の弟)で、義宗の母方の叔父でもある木曾基宗(刑部少輔)が「木曾氏」と称して、義仲・義宗父子の末裔と仮冒し、信濃国西筑摩郡木曾谷を支配したとされる。(Wikipedia)

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山村代官(木曽代官・福島関所関守)の墓


そして、数分歩いて山村代官の屋敷跡地へ
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山村代官屋敷
山村代官屋敷(やまむらだいかんやしき)は木曽代官・福島関所関守を務めた山村氏の屋敷の建物・庭園等の一部を整備したもの。隣接する福島小学校も山村氏の屋敷の跡地である。(Wikipedia)

義仲~木曽氏~代官・・・移り行く木曾谷の歴史を感じる場所でした