本日、岡山県西部の井原市において
「北条早雲」に関する展示鑑賞とともに、ゆかりの古文書講座に参加しました。
近年、関東を制覇した後北条氏の祖である『伊勢新九郎・・・後の早雲』は備中出身であるということが定説になっているようです。
イメージ 1

イメージ 2
中世文書に触れて、大変参考になりました。
イメージ 3

古文書講座終了後・・・北条早雲の墓所がある井原市内の法泉寺へ行ってみることに。
イメージ 4
法泉寺・・・その構えは城郭仕様

イメージ 5
北条氏の「三つ鱗」・・・後年に寺紋を替えたという。

イメージ 6
【伝】伊勢盛時(北条早雲)と伊勢盛定(早雲の父)の墓

イメージ 7
北条早雲画像【井原市重文】
北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。
一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた[6]。しかし、近年の研究では室町幕府政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である[7]1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる[8])であることがほぼ確定した[9]
幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった[10]。従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した[10]。(Wikipedia)