高取城跡から山を下り、高取の街へ。かつての高取藩、植村氏2万五千石の城下町である。
その昔、司馬遼太郎の短編小説「おお大砲」や「街道をゆく」を読み、この地の事柄が印象深く刻まれていた。
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街道をゆく(大和壺阪みち)より
寛永17年(1640年)10月19日、大番頭であった9,000石の大身旗本である植村家政が、2万5,000石に加増されて大名となり、再び高取藩が立藩された。
なお、植村氏は酒井氏本多氏らと共に戦国時代から松平氏に仕えた古参で、家康の下で抜群の戦功を挙げたことから、歴代藩主に家康の「家」を名乗ることを許されていた名門譜代であった。また、高取城江戸時代を通じても珍しい山城であったため、交通に不便で寛永末期から藩主・家臣団の移転が始まり、城には城番が置かれるだけであった。(Wikipedia)

城下町を歩いていると、偶然・・・
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旧商工会館支所の入口に大砲を発見した。

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司馬遼太郎の「おお大砲」をもとに製作した大砲らしい。

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模擬大砲とはいえ、大阪の陣から伝わるという設定のブリキトース砲・・・感慨深い。

そして、壺阪口駅から近鉄線路を横断して町役場へ歩く。幕末の文久三年(1863)・・・高取藩と天誅組の攻防戦における陣地である。
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天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)は、幕末文久3年(1863年8月17日吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である。大和義挙大和の乱などとも呼ばれる。(Wikipedia)

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鳥ケ峰古戦場跡(高取町役場付近)

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小競り合い程度で天誅組は退いたらしいが、この地方の人々にとっては大事件であったであろう。