YAMATETSU見聞録
史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~
2011年09月
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9月
30
西国の覇者・大内氏[番外:麻羅観音]
カテゴリ:
史跡探訪
西国の覇者・大内氏・・・
関係の写真を見ていて思い出したのでUPします
麻羅観音のお堂(奉納社あるいは保管庫)にあった看板ですが、
気になる意味不明の絵がありました。
意味が分かる方は教えてください。予想・感想でも良いのでお願いします
お堂(保管庫)
気になる意味不明な絵
タグ :
#その他芸術、アート
9月
30
西国の覇者・大内氏
カテゴリ:
史跡探訪
これも、過去の投稿物ですが、時間があったら読んでみてください~!
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/Japanese_Crest_Oouchi_Hisi.svg/120px-Japanese_Crest_Oouchi_Hisi.svg.png
大内菱
『
西国の覇者・大内氏
』
伝説によると古代朝鮮・百済聖明王の第三子琳聖太子が周防国多々良浜に着岸。のちに聖徳太子に謁見し多々良の姓を賜り大内県に住した。これが大内氏の祖である。厳密には大内氏の出自は不詳らしいが、興味深い話である。多々良から連想すると、朝鮮半島から帰化した製鉄技術者(たたら製鉄)の氏族であろうか。
大内氏は鎌倉時代には幕府御家人となり、南北朝時代には乱世に乗じて勢力を拡大。周防山口に本拠を移した。
南朝攻略に功があった大内義弘は明徳の乱を経て周防・長門他六カ国の守護となる。また南朝との和睦を斡旋し南北朝合一を成立させた。百済の末裔であることを理由に朝鮮に土地の割譲を求めたこともあったという。しかし、絶頂期も長くは続かず、大内氏は応永の乱により衰退する。
京都駅から大内氏の痕跡を求めて洛北へ向う。嵐山を経て大覚寺に到着した。大覚寺は大内義弘が尽力し南北朝合一が成立した場所である。長年離反した両朝の和合が可能になった要因のひとつは義弘の影響力もあったようだ。広沢池からきぬかけの道へ。衣笠山を左に見て船岡山へ向う。
応永の乱後、衰退した大内氏は勢力を挽回。大内義興のとき、山口へ来た流れ公方ともよばれる足利義材を擁立し上洛した。将軍義澄派を駆逐した義興は義材を将軍に据え、管領代となる。そして「永正の船岡山合戦」により、義澄派を再度撃退した。
船岡山は平安京・朱雀大路の延長線上にあることから平安京の基点と言われる独立丘陵である。京都支配の要地であることは間違いなく、応仁の乱時にも西軍の城があった。
船岡山へ登ると散策路の樹木に隠れて「応仁永正戦跡」の碑がある。船岡山には建勲神社があり、織田信長が祀られている。義興は信長のように上洛したが天下の覇者になることは無かった。
義興は在京約十年、幕政を掌握したが、出雲の尼子氏が勢力を拡大し安芸・石見等に圧力を加えてきたため、国元へ帰ることになる。
尼子氏を駆逐するため安芸へ出陣中、義興は没する。そして大内義隆へと代は替わり、西国随一の勢力となる。一時は七カ国(周防・長門・安芸・石見・豊前・筑前・備後)の守護を兼ねた。
義隆は吉田郡山城の戦いに援軍を送り、尼子氏の撃退に成功。そして出雲へ侵攻するが尼子氏攻略は失敗する。敗走中、義隆の養嗣子・晴持
(
二十歳
)
は海路脱出しようとするが大混乱の中、乗船が転覆。晴持は溺死した。
若くして最期をとげた晴持を祭神とする神社が 島根県東出雲町 にある。JR 揖屋駅 近くの旧国道に面して、大内神社という小さな社がある。地元では「権現さん」と呼ばれているらしい。私は寡聞にして敗走中に溺死した悲運の武将は他に知らない。そのためか社にある顔の欠けた狛犬を見ると、一層の哀愁をさそった。
出雲遠征の敗戦後、厭戦的になった義隆は、より一層文化的な生活を送った。結果として、西の京とも呼ばれる大内文化が栄えた。
その繁栄も永くは続かず、陶隆房
(
後の晴賢
)
の謀反によって崩壊する。北長門の大寧寺へ逃れた義隆は自害。辞世は「うつ人も うたるる人も もろ共に 如露亦如電 応作如是観」と伝えられる。翌日には逃亡中の嫡子義尊も捕らえられて殺害された。陶隆房に擁立された養子・義長は自害。後に挙兵した庶子・問田亀鶴丸は、捕らえられ殺害された。西国の覇者・大内氏の儚い最期である。
大寧寺は山口県長門市の湯本温泉街の近くにある。寺の墓地に向う坂道を上がると、嵐気に包まれた空間の中、家臣の墓に囲まれた大内義隆と義尊の墓所へたどり着く。
また、 長門市 の俵山温泉の近くには、麻羅観音という珍景観がある。麻羅観音の由来を記した石碑によると「義隆末子の歓寿丸は女装して山中にかくまわれていたが翌年春捕えられて、ここで殺され男児の証拠に男根を切られて持ち去られた」という。これを哀れみ里人が慰霊のために社を建立しているが、ここに並ぶ奉納された男根群には圧倒された。
以上で、大内義隆の男子は絶えたとされているが、なんと海を隔てた伊予国で、時を越えてその命脈は現在も存続しているという。次男・幾代丸(七歳)は家臣とともに伊予国風早郡に落ち延び、名を豊田幾之進本義と改め酒造業を営んだとされる。後に義隆の菩提を弔うため、法善寺を創立した。
愛媛県に渡り、 松山市 内
(
旧 北条市
)
、
JR予讃線 ・北条駅 の近くの法善寺を訪ねた。豊田幾之進夫妻の墓所には五輪塔がある。住職の方に頂いた案内書によると、幾之進は寛永十四年(1637)まで存命。行年九十三歳であったという。
【参考文献】
『大内義隆』福尾猛市郎著
(
吉川弘文館
)
『国史大辞典』吉川弘文館
応仁永正戦跡碑【船岡山】(京都市)
大内神社(島根県東出雲町)
大内義隆・義尊墓所【大寧寺】(山口県長門市)
麻羅観音(山口県長門市)
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#歴史
9月
30
戦国ディープ女子道(熱中スタジアム)
カテゴリ:
歴史的事柄
http://www.nhk.or.jp/n-stadium/27thm/images/main.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/0/05/Sekigahara.png/800px-Sekigahara.png
関連地図(Wikipedia)
録画していたBSプレミアム「熱中スタジアム」の[戦国ディープ女子道]を観ました。
歴女の方々の博識と情熱に感動しましたよ~
私も雑念を払って、あらためて純粋に歴史を愉しもうと思いました。
それはさておき、番組の中で関ケ原で西軍はどうすれば勝てたか?というコーナーがありました。
そこで検証されていたのが、
小早川秀秋隊が裏切る時刻までに、長宗我部盛親隊を隠密裏に伊勢街道沿いに迂回させ、
東軍の横を突き、徳川家康本陣は混乱・・・小早川は裏切りを思いとどまり、西軍の大勝利
というものです。
まあ、隠密裏の移動は無理でも、ある程度は東軍を混乱させることは出来たかなと思いましたが。
その前に、南宮山の毛利・吉川隊、長宗我部盛親隊などは、
たぶん大垣方面での戦乱に対応した布陣ですよね・・・東向きの。真相は分かりませんが
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#歴史
9月
30
木かげ
カテゴリ:
飲食ノート
今日は、以前から地元の情報テレビ番組等でも紹介されていたラーメン店に行って来ました。
「頑固な味 ラーメン専科 木かげ」という看板が見えて来ました。迷わず到着。
総社市にある工業団地の西側・高梁川の土手下にあります。
場所は、とても分かりにくいです・・・地元ですが店を初めて見ました。日常的に通ることが無い道です。
店のおすすめは「元気ラーメン」(写真)700円です。
生にんにくのスライスがたっぷりと、ニラもたくさん入ってます。味は美味しかったですよ~
う~ん。なんとなく元気になってきような
http://kokage.ddo.jp/p/img/tio_icon001.jpeg
OPEN/
11:00-14:00
17:00-23:00
定休日/
日曜日
岡山県総社市真壁1547
0866-92-5530
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#飲食店
9月
30
吉備南部最大の前方後方墳か!(山陽新聞)
カテゴリ:
歴史的事柄
今朝の新聞を開くと、1面に古墳の記事が。
それに近所じゃないですか~。
久しぶりの現地説明会にも行けそうです
10月8日14:00からの予定で、現地説明会だそうですよ。
今回は、仕事休んで現地説明会行ってきます~
吉備南部最大の前方後方墳と 判明 総社で昨年末発見の古 墳
昨年末に発見された総社市秦、一 丁〓(いっちょうぐろ)1号墳が、 墳長76メートルに及ぶ吉備南部最大 の前方後方墳であることが、同市教 委の発掘調査で29日までに分かっ た。墳丘を囲む二重の列石や小石室 など特異な外部施設も確認。古墳時 代前期の吉備内部の勢力図を知る重 要な有力首長墓として注目される。
同古墳は高梁川を東に見下ろす標 高180メートルの尾根上に立地。 昨年末、植林事業の際に存在が知ら れ、今年6月には隣接する方墳3基 とともに「一丁〓古墳群」として同 市史跡に指定。今月から、規模や構 造を確認するため、墳丘と周辺の発 掘調査が行われている。
墳丘は、やや縦長の後方部(長辺 38メートル、高さ5メートル)に、 三味線のばち形をした古式の前方部 が接続。後方部3段、前方部2段の 壇状に築かれ、側面は直径10~30セ ンチ程度の葺石(ふきいし)で装 飾、補強されるなど、前方後円墳に 劣らない本格的な構造を持つ。築造 年代は、出土した埴輪(はにわ)片 から4世紀前半とみられる。
周囲では、前方部側に2列、後方 部側に1列の列石が墳丘の外形に 沿って巡り、付近で小石室も複数確 認。これら外部施設も含めた全長は 100メートルを超えることにな る。
〓は「土」へんに「丸」
タグ :
#人類学と考古学
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