YAMATETSU見聞録
史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~
2012年02月
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2月
29
友人のブログ開設
カテゴリ:
日記・雑感・覚書
今日は、2月29日
4年に1回の日ですね
今日は嬉しい連絡がありました
神戸の友人がブログを開設したとのこと。
『揚羽蝶探索方日誌』の「薩摩十兵衛」さんです♪
良かった、良かった
これからも宜しくお願い致します~~
タグ :
#兵庫県
2月
28
総社宮~地名の由来~
カテゴリ:
歴史的事柄
総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、特定地域内の 神社の祭神を集 めて祀った(合祀)神社のことである。 総社宮、総神社、総社神社 などとも呼ばれる ことがある。
多くは令制国の範囲で集めたものを指すが、 荘園や郡・郷・村などの地域内のものを 集めたものもある。祭神の合祀だけでなく、神社そのものの統合である場合もある。(Wikipedia)
─────────────────────────────────
先日、いろいろとお願いしたいことがあったりして、地元の総社宮に参拝しました
総社というのは各地にあるみたいですが、市町村名になっているのは総社市だけですね~!
認定証みたいなものがあったとは知らなかったです!
ここはちょっとした回廊があったりして良い雰囲気ですよ
タグ :
#歴史
2月
27
ニャーさん旅立つ
カテゴリ:
日記・雑感・覚書
今日・・・ニャーさんが天国へ旅立ちました
先週はほとんど、食べてなかったみたいです。
延命措置は、かわいそうだという意見もあり、
病院には行きませんでした。
写真は、ちょっと前のまあまあ元気だった頃のものです。
なかなか写真を撮らせてくれないネコで、野良猫よりもむずかしい・・・
もう少し頑張って撮ればよかったなあ~~・・・
ネットで調べると、12歳は平均寿命みたいなので天寿だと思います。
ニャーさん、今まで・・・ありがとうございました
タグ :
#猫
2月
26
明石掃部の足跡
カテゴリ:
史跡探訪
最近は、戦国時代の史跡行ってないなあ・・・・・
行方不明の武将などは興味深くてワクワクしますね~
謎の武将「明石掃部(あかしかもん)」
について、だいぶ前に書いたのを思い出しました
こんな感じの
「謎」の人物
…戦国以外でも良いのですが、
何か御存知の方は教えてください。
そういえば、足利直冬について調べていたのが途中だった・・・・・
『明石掃部の足跡』
生没年不詳。キリシタン武将・明石掃部全登は、通説として夏の陣大坂落城後、行方不明ということになっている。南蛮
(
スペインかポルトガル
)
へ渡ったという伝説もある。
その明石掃部が大坂落城後、備前国和気郡小板屋村
(
岡山県和気郡吉永町
小板屋
)
で晩年を過ごしたという。
(
別冊歴史読本・日本史謎解き史跡探訪より
)
私は以前より、 吉永町 の地図に記されている「掃部屋敷跡」という文字に関心があり、明石掃部となにか関係があるのではないかと推測していた。これを切っ掛けに現地を訪ねることにした。
明石掃部は名を守重という。備前国磐梨郡熊野
(
岡山県赤磐郡熊山町
)
保木城主・明石飛騨守景親の嫡子として生まれる。景親は備前守護代・浦上宗景に仕えていたが、宇喜多直家に通じ味方した。宗景滅亡後、直家の客分となる。しかし、実態は客分というよりも同盟者であったという。明石氏は宇喜多氏よりも早くから土着し、勢力を養ってきた土豪であった。民衆に対する統率力では明石氏の方が実権を掌握していた。
謀略や毒殺で有名な宇喜多直家がなぜ明石氏という対抗者を退けなかったのか。その理由は、明石氏が銅山経営者・技術集団の統率者であったからだという。明石氏を滅ぼすと銅山経営に支障をきたし、資金源が乏しくなる。そのため、明石氏は宇喜多家で一番の大身でありながら家老の列には加えられなかった。
景親没後、守重は家督を継ぎ、宇喜多秀家に仕えた。知行は三万三千百十石。
(
宇喜多家分限帳
)
太閤秀吉に愛され、直参大名待遇であったという。
明石掃部は、キリシタン大名の黒田官兵衛孝高の親戚であるという。その縁で天正十三年頃キリシタンとなった。洗礼名はジョアン。
(
他にヨハネ・ジュストなど説がある
)
熱心なキリシタンで、伴天連を自邸に招いて布教させたほどであった。
戦国大名などが、俄かキリシタンになったのは、当時の最新兵器である鉄砲の火薬原料「硝石」を宣教師・教会を通じて入手することが最も大きな理由であったとされる。しかし、後の明石掃部の行動からすると信仰は純粋で真剣なものであったであろう。
太閤秀吉没後の慶長四年、五大老・備前岡山五十七万四千石・宇喜多秀家の家中で騒動が勃発する。秀家が正室豪姫の付人を重用したことに加え、キリシタンの「官僚派」と、日蓮宗の「武断派」との対立があり、家中が分裂して一触即発の危機となる。
このとき、宇喜多家の弱体化をはかる徳川家康により処断され、日蓮宗の武断派である百戦錬磨の譜代重臣が宇喜多家を去ることになった。主な重臣には、戸川達安
(
のち備中庭瀬藩主二万九千二百石
)
・宇喜多詮家
(
のちの坂崎出羽守・石見津和野藩主三万石・大坂の陣における千姫救出で有名
)
・花房助兵衛
(
のち旗本・備中高松八千二百二十石
)
などがいる。この一件で多くの重臣を失った秀家は、明石掃部を宇喜多家の首席家老
(
執政
)
とする。
翌年、明石掃部は関ヶ原の戦いで宇喜多勢の一万七千の内八千を率い、西軍の先鋒として奮戦した。西軍敗北後、備前へ帰国して岡山籠城を志したが、東軍に属した宇喜多旧臣らに岡山城は請け渡されるという情報が入る。
岡山城へ入ることは不可能になったため、備中足守の禅僧を頼りそこに潜伏していた。
その後、関ヶ原の功により大大名になった黒田家を頼り筑前秋月に住んだともいう。
数年がたち、全登と名を改めた明石掃部は慶長十九年、豊臣家の招聘に応じ大坂に入城する。その目的は、キリシタン弾圧をする幕府に反抗するためであろう。冬の陣・夏の陣では、五人衆の一人に挙げられ、一族やキリシタン部隊などの兵を率いて戦った。現在残っている「大坂夏の陣図屏風」には、十字架を表す「白地に花クルス」の旗を掲げる明石部隊の姿がみえる。
大坂落城後、徳川家康は行方不明となった明石掃部を警戒し「明石狩り」を決行するが、ついに探し出せなかった。
掃部屋敷跡に向かうべく、山陽自動車道の和気ICから金剛川沿いに 吉永町 に入る。JR 吉永駅 付近から八塔寺川沿いに約三キロ北上。細丸橋を渡ると小板屋に入った。公民館近くの公園に車をとめた。周囲は普通の集落で静かな田園風景である。
やはり案内板などは無く、その史跡がどこにあるのか分からない。石碑があるはずなので周辺を探す。検討をつけた場所にいくと、そこにあった。
「川西家先祖之碑」という大きな石碑がある。川西家というのは明石掃部の子孫が江戸幕府をはばかり川西と改姓したものだという。
その斜め後ろに小さな石碑があり「従五位下 左近将監 明石掃部介守重宅跡 これより西 四段八畝十九歩」とある。 吉永町 から郵送してもらった資料によると、明石掃部の墓は小板屋にあったが、洪水で流されたらしい。
その石碑から数十メートル離れた場所には、「唐人墓」と呼ばれる自然石を円形に積み重ねた不思議な墓がある。詳細は不明だが、キリシタンあるいは明石掃部に関係があるのかもしれない。
その時偶然、小板屋在住の年配の人に出会った。明石掃部について長年研究されていて、子孫・川西家の親戚であるという。いろいろな情報や自説を伺ったが、要点をまとめてみると、
●石碑付近の畑を地元では「掃部畑」という。
●徳川幕府に探索されやすいため、田舎の小板屋に明石掃部は住んではいない。都会である大坂の街中のほうが潜伏することが容易である。
●唐人墓は子供の頃からあるが、明石やキリシタンとは関係ない。中国人の墓かもしれない。
●小板屋に住んだのは掃部ではなく、明石一族の誰かではないか。
以上の様な事を言われた。
結局のところは、明石掃部の最後は不明である。しかし、幕府の探索から逃れ、この地で静かに晩年を過ごしたと思いたい。
川西家先祖之碑
従五位下 左近将監 明石掃部介守重宅跡
唐人墓
タグ :
#歴史
2月
26
備前・備中・備後の国分寺
カテゴリ:
史跡探訪
先週のこと、備後国分寺を案内して頂きました
そこで、以前行った備前国分寺のことを思い出したので、UPします~
備前国分寺
国分寺跡の看板が哀愁を誘いますね
昭和
49年(
1974年
)に発掘調査が行われた。この結果、南北200メートル・東西180メートルの敷地に、南門・中門・金堂・講堂・僧坊が一直線に配され、南門と講堂を結んだ回廊の中に金堂と塔があり、塔は金堂の南東に配された典型的な
東大寺
(国分寺)式伽藍配置となっていることが確認された。ただし、中門が南門に非常に接近していることが、他の国分寺に見られない特徴である。寺院の礎石は加工の痕跡があまり見られず、礎石に適した石をそのまま利用していたようである。調査翌年の昭和50年(
1975年
)に国の史跡に指定された。(Wikipedia)
建造物は何も有りません・・・・・残るのは石造物のみ・・・・・石塔は鎌倉時代のものらしいです。
南側に見えるのは山陽自動車道
備前国分寺の石標が残ります・・・
備中国分寺
【総社市のHPより転載】
私の地元で、何度も行ったのですが写真ないです・・・。
備後国分寺
現在の寺域は縮小されていますが、かつてはこの門より南側に広がっていたようです。
備後国分寺本堂
やっぱり、風景としての印象は備前国分寺が強いですね~
国ごとにある
国分寺
:
安国寺
:
一宮
を訪ねてみるのも良いもんですなあ~~
タグ :
#歴史
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