YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2012年08月

カルカッタ幻想【甲州遠征道中記4】

若獅子神社参拝後、北へ向かいます。国境を越えて駿河国から甲斐国へ
 
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国境付近で集中豪雨が~!
しかし・・・なんとか・・・
「甲州」へ突入です♪
そして、富士山の裾野にある「鳴沢村」に到着しました!
 
宿営地は「道の駅なるさわ」
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イメージ画像(Wikipedia)
道の駅「なるさわ」には、富士山博物館が併設されていたり、また温泉施設も隣接しているので、ゆっくりくつろぐにももってこいの駅。駐車場も大型車両がかなりの台数が停められるようだ。ここ近年、オートキャンプが流行しているせいか、駐車場でキャンプをする利用者が増えているのだが、駐車場には「オートキャンプ禁止」の看板が立っている駅としても有名かもしれない。

道の駅に到着後、夜の飲み会食材と酒類を購入♪
近くにある入浴施設で身を清めます。
道の駅で、うっすら見える富士山を眺めながら夕食。
そして、車内で飲み会♪
miyake先生の楽しい戦史講義を聴く事が出来ました☆

いよいよ車中泊の設営です!
恐怖の奴隷船か?・・・
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いやいや・・・コレではなく
こんな感じになる予定です!
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画像提供:ktgwkuj隊長
この状態・・・本家の奴隷船と比べると、少し良さそうかな?
 
そして、連想するのが、
でも・・・実際はこんな感じです♪
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画像提供:ktgwkuj隊長
 
なかなか快適な寝心地でしたよ♪
この日は鳴沢村も涼しくて、夜は20度くらいでした。
カルカッタの黒い穴は幻?だったのかもしれません
 
ただ、僕は飲みすぎのための体調不良で・・・反省。

帰還した九七式中戦車【甲州遠征道中記3】

昭和19年6月:マリアナ諸島:サイパン島の戦い
押し寄せる米軍・・・日本軍守備隊は全滅しました。


15日7時、アメリカ軍主力の海兵隊は上陸を開始した。
翌16日、第27歩兵師団の部隊が上陸しアスリート飛行場に向け進撃した。飛行場までの間に広がるサトウキビ畑中に日本兵が潜んでおり、そこから奇襲攻撃が加えられた。そのため上陸米軍は、火炎放射器で畑を焼き払い、日本兵が出てきた所を攻撃する作戦に出た。作戦は成功し、第27歩兵師団は夜半までに飛行場に到達した。16日の夜から17日にかけて、日本軍は戦車第9連隊(44輌)含む約8000名が総攻撃を開始したが、1時間に野戦砲800発、機銃1万発という米軍の圧倒的火力によりほぼ全滅した。18日、斎藤中将は飛行場を完全に放棄。そのため南部に残された日本軍は完全に孤立した。(Wikipedia)


以前、下記の本を読んで感動しました
全滅した戦車第9連隊。そして戦後も廃棄されたままの九七式中戦車。
下田四郎さんの努力により、日本に帰還した九七式中戦車の物語です。
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帰還を果たした2輌の九七式中戦車
そして現在・・・東京:靖国神社と富士宮:若獅子神社に安置されています。

九七式中戦車 チハ(きゅうななしきちゅうせんしゃ -)は、第二次世界大戦時の日本軍戦車八九式中戦車の後継中戦車として1930年代後半に開発・採用された。開発は三菱重工業
1939年(昭和14年)のノモンハン事件で初陣を飾った。(Wikipedia)
 
靖国神社の九七式中戦車は迷彩塗装復元済ですが、
対照的なこの質感・・・言葉では言い表せません。
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履帯と転輪
 
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刻まれた無数の弾痕

玉砕へ向かう訓練・・・戦車少年兵を偲んで帰還戦車に別れを告げます。
九七式中戦車(チハ)少年戦車兵訓練の記録
昭和18年 日本映画新社「富士に誓ふ」より

陸軍少年戦車兵学校と若獅子神社【甲州遠征道中記2】

富士宮市に入り、目的地「若獅子神社」に到着
この神社とその周辺一帯には、かつて「陸軍少年戦車兵学校」が有りました!


陸軍少年戦車兵学校 (りくぐんしょうねんせんしゃがっこう)とは、静岡県富士宮市にあった大日本帝国陸軍の教育機関である。機甲部隊の拡充強化のため、14歳から19歳の少年が2年間かけて育成が行われた。教職員は1,550名、延べ4,000余名の少年が学んだ。(Wikipedia


昭和14年に起こった満蒙国境「ノモンハン」事件で、必勝不敗の伝統に輝いていた日本陸軍が充実した近代装備と膨大な物量を誇るソ連軍の消耗作戦の前に、はしなくも世界軍事の体制に著しく立ち遅れていることを如実に暴露してから、その近代化が強く叫ばれ戦車隊拡充の声も高くなった。
  勿論、我が国でも昭和10年頃から急激に悪化した国際情勢に対応し、逐次国防充実計画を進められてはいたが、当時の国力からいって、ことに支那事変を戦っていたため、到底列国に伍し得るような、近代装備を急速に整備することは望めなかったから、これを補うため兵員、特に幹部の資質を向上し、一騎当千の強兵を養成するの外なし、との結論に達し、戦車については既定の整備計画を進めるほか、新に「少年戦車兵」制度を設けることになり、多年の懸案がここにはじめて実現することとなった。
(若獅子神社公式HPより)
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約30万坪の広大な敷地です!
そして、その痕跡は・・・
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現在も残る門柱(おそらく北門)
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門柱の「少年」という文字・・・感慨深いです・・・
 
ココにも有りました「境界石」♪
境界石愛好家のYAMATETSUとしては・・・もうこれで満足であります!
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陸軍境界石
 
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陸軍少年戦車兵学校の記念碑
 
戦車兵学校跡の若獅子神社に参拝し、歴史に想いをはせる隊員
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若獅子神社
若獅子神社(わかじしじんじゃ)は静岡県富士宮市にある神社で、陸軍少年戦車兵の教官、生徒六百有余を祭神として祀る。
昭和40年(1965年)12月、陸軍少年戦車兵学校の跡地に戦没同窓生の慰霊・顕彰のため若獅子の塔を建立したのを起源とし、昭和59年(1984年)10月に神社を創建。(Wikipedia)
 
神社HPの写真・・・晴れていたらこのような景色が見えます
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若獅子神社公式HPよりhttp://www.wakajishi.jp/
 
次回は帰還戦車の紹介です★
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取材中のYAMATETSU

作戦始動【甲州遠征道中記1】

数か月前のこと・・・召集令状が届き、極秘作戦が発令されました!
作戦決行日は、8月17日~18日。作戦名は・・・
河口湖奇襲:カルカッタの黒い穴作戦=【カ号作戦】
 
箝口令が解除されたため、その時の出来事を綴ってみたいと思います


カ号作戦の軌跡(結果)
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ウロウロした軌跡は省略すると、このような感じ。富士宮から時計回りです。
富士山の周囲を行動したようになっていますが、
富士山は、さっぱり見えませんでした
(まあ、ちょびっとだけ見えましたが・・・絵にならず)
僕の場合、河口湖あたりで人生の最接近だったのですが・・・写真はイメージです
河口湖から富士山を望む(Wikipedia)
いよいよ作戦始動日の朝!
広島県在住の作戦指揮:ktgwkuj隊長神社の宮司をされているOさんが福山を出発。
岡山県在住の戦史研究家のmiyake先生随行記者:YAMATETSUを拾って、4人の部隊になりました。
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山陽自動車道~名神高速~新名神高速~東名阪~伊勢湾岸~東名高速・・・そして、
三ヶ日JCTから今年4月に開通した「新東名高速」に入りました♪
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浜松SAに到着
やっぱり広い駐車場は満車です・・・ショッピングモール?のような施設でした!
 
長い長い道のりで・・・ようやく新冨士ICで降ります。
北へ進み目的地がある富士宮市に入りました♪
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朝霧高原の方向へ
目的地はもう少しです

このシリーズ【甲州遠征道中記】・・・しばらく続きます~!

耳なし芳一からの手紙

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
漫画家になる夢をかなえるため、下関から新幹線に乗り込んだ家出娘・池宮里奈は、車中で殺人事件に遭遇、犯人の嫌疑をかけられるが、偶然居合わせたルポライター・浅見光彦に助けられる。被害者は、東京・田園調布に住む鉄鋼会社相談役。その鞄には「火の山の上で逢おう」という謎の手紙が残されていた。差出人の「耳なし芳一」を追って、浅見は長州・下関を訪れることになるが…。


耳なし芳一・・・題名が気になって読んでみました。
核心に触れそうなので、感想は書けませんが面白かったです~♪


キーワード「耳なし芳一」について
耳なし芳一(みみなしほういち)は、安徳天皇平家一門を祀った阿弥陀寺(現在の赤間神宮山口県下関市)を舞台とした物語、怪談小泉八雲の小説『怪談』にも取り上げられ広く知られるようになる。
八雲が典拠としたのは、一夕散人(いっせきさんじん)著『臥遊奇談』第二巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」(1782年)であると指摘される。
『臥遊奇談』でも琵琶師の名は芳一であり、背景舞台は長州の赤間関、阿弥陀寺とある。これは現今の下関市、赤間神社のことと特定できる。
昔話として徳島県より採集された例では「耳切り団一」で、柳田國男が『一つ目小僧その他』等で言及している。(Wikipedia)


 
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