YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2012年11月

砲台山の要塞攻略1/3【江田島紀行17】

利根の慰霊碑から北方面へ向かいます♪
山の上に明治の要塞跡が有る!との情報を入手したため、
「要塞を攻略せよ!」との指令が来たのであります(自分の中で・・・)
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場所は江田島市内の西能美島にある「砲台山」!
要塞跡付近には駐車場があるようなので、山中の道路を登っていきます。
しばらく走って・・・なんとか到着♪
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コレは見応えが有りそうです!
 
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整備された遺跡・・・保存状態良好★
 
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この円形遺構が残る一角は・・・
 
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28cm榴弾砲の台座遺構
 
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日露戦争・・・203高地攻略の立役者、28cm榴弾砲です♪
明治の表記では「二十八珊榴弾砲」
明治の呼称では「にじゅうはっさんちりゅうだんぽう」
大口径砲かつ19世紀末の火砲であるため、砲弾の装填は砲身を水平にしてクレーンで吊り上げた砲弾を人力で押し込んでから装薬を入れる後装式であり、発射速度は高くない。
もともとは対艦用の沿岸砲として日本内地の海岸に配備されていたものであったが、日露戦争勃発後に陸軍技術審査部は二十八糎砲を攻城砲として使用する案を掲示した。(Wikipedia)
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参考画像:那須戦争博物館より
この博物館・・・名物館長がおられるそうです。会いに行きたいけど那須は遠すぎる・・・残念
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他にも遺構が色々と・・・
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観測所跡・・・ほど良い朽ちた雰囲気が良い感じです。
 
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弾薬庫跡
 
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弾薬庫内部・・・重厚な造りです。
次回へつづく

航空巡洋艦:利根の最期2/2【江田島紀行16】

前回のつづきで、副題は・・・ktgwkuj隊長のマネをしてみました
「遠くの慰霊碑、砲弾測りに行ってみたり(パート1)」


軍艦利根資料館の見学を終了し、隣接する慰霊碑へ!
 
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軍艦利根慰霊碑
石碑の周囲に有るモノ・・・砲弾のような形状です!
 
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コレはまさに砲弾\(◎o◎)/
 
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撫でまわしていると・・・先端部分が取れました!
ココだけ木造・・・他は金属のようです。
ということで、砲弾を測ってみました♪
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約64㎝・・・直径は約20.3㎝・・・ということは、利根の主砲砲弾か
廃棄処分前の利根艦内から移動し、慰霊碑の周囲に設置されたものだと考えられます。
 
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慰霊碑前の海(江田島湾内)・・・この付近に利根が大破着底・・・

航空巡洋艦:利根の最期1/2【江田島紀行15】

軽巡:大淀の慰霊碑から車で数分・・・同じ江田島湾内に他の慰霊碑が有ります。
それは・・・航空巡洋艦とも呼称される「利根」の慰霊碑です!
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重巡洋艦:利根
利根(とね)は、日本海軍重巡洋艦で、利根型重巡洋艦の1番艦。艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従って、関東地方を流れる利根川にちなんで名づけられた。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。艦前部に主砲塔4基を集中し、後部を飛行機発進甲板・水上偵察機待機所とした、第二次世界大戦当時としては珍しい艦型である。航空巡洋艦として、艦隊の索敵を担当した。
・・・・・昭和20年7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け損傷(呉軍港空襲)。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により爆弾6発を受ける。対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努めたが、その甲斐も無く翌日になって大破着底し、終戦を迎えた。(Wikipedia)
 
「大破着底」・・・沈没しないように、浅瀬で米軍を迎撃したということです。着底したのは大淀と同じ日。
この「利根」の関連資料を集めた資料館が慰霊碑に隣接してあります。
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軍艦利根資料館
普段は閉鎖していて開けてもらわないといけないようですが、この日はなぜか開いていました♪
入ると正面に利根の1/100模型が見えます!
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菊花紋章が映える艦首
 
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20.3cm連装砲4基8門(前甲板に主砲を集中配置)
 
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利根艦内の浴槽
 
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全速前進!・・・いや微速後進ですかね。
 
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海軍兵学校の瓦(関連資料)
 
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大破着底した状態
 
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呉周辺の艦船配置図(米軍艦載機来襲時)
 
次回へつづく

連合艦隊旗艦:大淀の最期【江田島紀行14】

お世話になった民宿をあとにして、この日の目的地へ向かいます♪
 
その昔・・・敗戦の年・・・昭和20年(1945)7月・・・
江田島周辺には南方からの重油補給不足により、動けなくなった軍艦が集結。
その中に、最後の連合艦隊旗艦「大淀」も加わっていました。


【歴代連合艦隊旗艦】 防護巡洋艦松島」 戦艦三笠」 戦艦「敷島」 戦艦「朝日」 戦艦「金剛
 戦艦「山城」 戦艦「長門」 戦艦「陸奥」 戦艦「大和」 戦艦「武蔵」 軽巡洋艦大淀


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軽巡洋艦:大淀
大淀(おおよど)は日本海軍軽巡洋艦。艦名は宮崎県下の最大河川である大淀川に由来する。大日本帝国海軍最後の連合艦隊旗艦でもある。昭和十四年度に着手された第四次軍備充実計画(通称マル4計画)により乙巡(阿賀野型軽巡洋艦)と共に丙巡として建造された。
・・・・・昭和20年7月28日、米艦載機の空襲(呉軍港空襲)を受け、午前10時ごろ艦橋近くの被弾によって大規模な浸水が発生し右に傾斜した。艦長は傾斜を防ぐためにキングストン弁の開放を指示し、次々に命中する爆弾による浸水のために転覆を防ぐことは出来ず、12時ごろ「大淀」は右に横転した。現場は浅い海岸だったので、船体の一部のみ海面に出した状態で完全に船体は横倒しとなり、艦橋も左に大きく根元から歪んだ
24日と28日の戦闘による戦死者は223名、負傷者は180名だった。転覆後の「大淀」に対して、さらに攻撃がおこなわれ、舷側に爆弾が命中している。(Wikipedia)
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転覆着底した大淀

江田島湾で最期の時をむかえた大淀・・・その慰霊碑が有るということで行って来ました。
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江田島湾の最南部付近の細い道を入って行くと、慰霊碑があります。
 
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大淀慰霊碑
 
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戦没者の御冥福をお祈りします。
 
慰霊碑の横には、大淀の模型が奉納されています。
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全長192m
 
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三年式15.5cm3連装砲2基
 
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慰霊碑前の江田島湾
この付近で大淀が・・・感慨深いです・・・

民宿ひとり宿泊2/2【江田島紀行13】

民宿体験・・・食事編♪
この民宿は一泊6000円なのですが、素泊まりだと4000円です。
だから一食当たり1000円ということですな。
客はひとりだけだから、食事を準備するのは面倒なのかな~とか・・・
余計な心配をしながら待っていると、夕食の時間18時になりました★
20人くらい座れる食堂・・・民宿家族の台所(食事部屋)とは仕切りがしてあって
客の食堂へ運んでくる構造です。おばあちゃんが料理を運んでくれます。
「お兄さん、今日は納豆の賞味期限が切れとるから・・・ごめんね。」
「いえいえ・・・納豆は無くてもいいですよ」(納豆は嫌いなので良かった~)
「今日は、江田島名産の牡蠣をフライにしてみたけえ食べてみてな」
「カキフライですか~!ありがとうございます」
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◆夕食◆
う~ん・・・家庭料理って感じで良いと思います♪カキフライも美味しい!
 
「お兄さん、コレが、で~ぶあるけえ食べてみられえ」
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わ~~\(◎o◎)/!大嫌いな「いちじく」だ~!
コレは出してもらったのだから、少し食べないとなあ~と思って、
2個ほど頑張って食べました・・・まあまあですな(^_^;)
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◆朝食◆
 
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コレをお土産に頂きましたよ。
 
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まあまあ居心地が良かった?はじめての民宿・・・お世話になりましたm(__)m

最終目標はこんな感じの、素晴らしい民宿★
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船瀬漁港 五色町(淡路島)
ココまで行くには修行が必要ですね♪
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