YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2013年01月

崇神天皇陵と竹之内環濠集落【大和路探訪記22】

次の目的地は崇神天皇陵・・・行燈山古墳と呼ばれています★
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行燈山古墳(あんどんやまこふん、あんどやまこふん、行灯山古墳とも書く)は、奈良県天理市柳本町に所在する古墳時代前期の前方後円墳帆立貝形古墳にも分類される)である。
本古墳は、龍王山の斜面の先端を利用して造られており、平野の方に前方部を北西に向けている。後円部がより高い山側にある。 三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に次ぐ大きさであり、現崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)に比定されている。その政治勢力は、三輪王朝とか初瀬王朝と呼ばれている。初期ヤマト政権の大王陵である。
幕末の文久の修陵の開始時には、本古墳が景行陵だったのが、修陵事業の完成直前の1865年(慶応元)2月に、崇神陵に取り替えられた。これなどは、考古学の遺跡名に陵墓名を持ち込むと混乱を引き起こす原因になる好例である。(Wikipedia)
 
もともと景行天皇陵になっていたようです・・・
混乱していたみたいですね\(◎o◎)/!
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全長242メートル
 
前方部へ周ります。
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崇神天皇陵
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日紀元前29年1月9日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日紀元前29年1月9日))。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。
◆現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。
258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代と重なることになる。
◆諡号から、崇神天皇を初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある
(Wikipedia)
 
神武天皇=崇神天皇説・・・ということは、神武東征=崇神東征?? 
九州から大和にやって来たのでしょうか?
 


崇神天皇陵から北へ向かって、のんびりと歩いて行きます♪
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こんな道だったら、いくらでも歩けそうです★
 
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山の辺の道沿いには、このような無人販売所が有ります。
みかん一袋100円、買ってみました(^o^)
 
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柿と古道・・・良い感じ(^o^)

次は中世(戦国時代)の遺構です♪
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竹之内環濠集落
 
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環濠の一部が残っています。
 
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集落の自衛・・・この環濠で防御できたのでしょうか?

桧原神社から景行天皇陵へ【大和路探訪記21】

ホケノ山古墳から東へ進むと、「山の辺の道」の本道に入ります♪
次に向かうのは大神神社の摂社・・・
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桧原神社
ココから振り返ると大和盆地を見渡せますよ★
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冬の大和盆地をはさんで、二上山が見えます!
いつの日か 登ってみたい 二上山
 
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桧原神社は「元伊勢」と呼ばれています。
元伊勢(もといせ)は、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮内外両宮(皇大神宮(内宮)豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所をいう。
伊勢内宮の祭神である天照大御神皇祖神であるが、崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられ、つまり皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した同天皇が皇女である豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑に移したのに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、垂仁天皇の第4皇女倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したと伝わっている。(Wikipedia)
 
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この雰囲気・・・まさに「神聖」「厳粛」・・・いや、言葉では表現できません
 
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三輪鳥居(三ツ鳥居)
大神神社関連の鳥居・・・どうも由来が不明らしいですが・・・
なんともデザインが素晴らしいですね★

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このような景色を観ながら北へ・・・
 
巨大古墳が見えてきました!景行天皇陵です♪
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景行天皇陵(渋谷向山古墳:前方後円墳 全長310m)
景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年(紀元前13年)- 景行天皇60年11月7日130年12月24日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日71年8月24日) - 同60年11月7日(130年12月24日))。和風諡号大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。(Wikipedia)
 
この景行天皇陵、吉備の造山古墳との比較で話題になったりします。
というのも、仁徳天皇陵などの巨大古墳が出現する前の時点で、
造山古墳は同時期の景行天皇陵を凌ぎ、日本一だったという説があるからです。
造山古墳は、全長350m、高さ31m、平面積約7.8haの巨大な墳丘規模を形作っているばかりでなく、約9.6haの広大な墓域の中に築造されていることが、地割から復元できます。全国の多くの前方後円墳に見られるような、水を湛(たた)える周濠(ごう)は無かったと判断されますが、吉備地方でのそれまでのものとは規模と形態を異にしています。全国第4位の規模は、この古墳の築造時には最大規模であったと考えられます。第1位の大山古墳(伝仁徳天皇陵=全長486m)と第2位の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵=全長425m)とは、造山古墳より後の時期であり、第3位の石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵=全長365m)が同時期でほぼ同規模ですので、従来の全国最大規模の渋谷向山古墳(伝景行天皇陵=全長300m)を、大きく更新した最大規模観で出現していたと評価されます。
 
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天皇陵とクルマ お気に入り写真です♪
古墳と廃車(ホンダですが車種不明)・・・哀愁を感じる雰囲気でした

ホケノ山古墳と画文帯神獣鏡【大和路探訪記20】

国津神社の近く、ホケノ山古墳へ♪
この古墳は・・・そうです・・・小説の舞台!
 
ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳である。
2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。現在、復元整備され一般に公開されている。
◆被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)
◆築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と古墳時代出現期のものであるとする見方が出されている。
◆墳形:纒向型前方後円墳葺石あり)、円墳に短い前方部を東南方向に付けている。(Wikipedia)
 
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ホタテ貝型です 
 
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全長約80メートル・・・初期の纏向型前方後円墳
祖形は吉備の楯築弥生墳丘墓・・・であってほしいみたいな
吉備の人々が、大和の纏向にやってきて、
連合国家の首都機能を持つ都市を建設したという話ですね。
それが邪馬台国とはかぎりませんが・・・。
 
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出土した画文帯神獣鏡
 
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墳丘上より箸墓古墳を望む・・・この景色・・・3世紀とつながった気分です

備陽史探訪の会~新年行事参加~

先日の土曜日(1月26日)のこと
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福山市の「備後遺族会館」にて
「備陽史探訪の会」の総会が開催されました。
YAMATETSU自身は今年から入会したということもあって、
ぜひ参加してみようと決意していたのでした。
この日は、総会とあわせて「講演会」と「新年会」もあります。

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記念講演「大飛島遺跡から見た瀬戸内の古代」 
講師は笠岡市教育委員会:安東康宏さん
大飛島遺跡とは
山県:笠岡諸島の大飛島にある8~11世紀の祭祀遺跡で、
国指定重要文化財等の貴重な出土品が多数あります。
 
以前、岡山県立博物館で大飛島遺跡の遺物を数点観たことがあります。
 
この講演は主題以外にも余談が面白かったのですが、
印象に残ったのが「神武東征」の「高島」について・・・
 
高島宮高嶋宮(たかしまのみや、たかしまぐう)は、神武天皇日向から大和への東征途上で、吉備国に営んだとされる行宮(かりみや)である。吉備高島宮吉備高嶋宮(きびのたかしまのみや、きびたかしまぐう)とも呼ばれる。
・・・昭和13年(1938年)から15年にかけて、文部省が当時の学界の総力をあげて学術的な「神武天皇聖蹟調査」を試みた結果、当時の岡山県児島郡甲浦村大字宮浦字高島(現岡山市南区宮浦)を「聖蹟伝説地」に認定した。宮浦には高島神社が鎮座し、高島宮の故跡に後世神社を創祀したとの伝承をもつため、この文部省の調査によってほぼ公認された状態であるが、同様の伝承を有し、または故跡に比定される神社(論社)は岡山県内や周辺一帯に複数存在している (Wikipedia)
 
上記の高島認定のときに「笠岡諸島の高島」は認定されず・・・
しかし、納得できない島民が個人的に建立した石碑があるらしいです。
こういう話は大好きなので、
笠岡諸島の高島に行ってみたくなりました!
あわせて、周辺の高島宮伝承地にも・・・そんなことをしていたら
神武東征ルートを追って行かなくてはならなくなりますね

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総会は無事終了・・・素晴らしい組織ですね!
 
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新年会・・・久しぶりに酔いました~
関係者の皆様方、色々お世話になりました。ありがとうございますm(__)m

その後、福山駅前の高級ホテルに宿泊・・・ひとり二次会を愉しみました
今回は、行事の前後に福山の気になる場所を探索・・・その件は後日♪

国津神社と狛犬【大和路探訪記19】

箸墓古墳から東へ・・・目的地のホケノ山古墳に向かいます♪
その途中、ホケノ山古墳に付属するような位置にある神社に立ち寄りました。
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国津神社
当國津神社は、古来より「地主の森」といい、天照大神の御子神五柱を祭神としています。
この男神五柱は、「記紀」神話によると、素盞鳴尊が天照大神と天の安河を中にはさんで誓約をしたとき、天照大神の玉を物実として成り出た神であります。
ちなみに纏向川下流の芝の国津神社(
九日神社)には、素盞鳴尊の剣を物実としてうまれた奥津島比売、市杵島比売、多岐津比売の三女神を祭祠しています。
この箸中と芝で、神の山三輪山を水源とする纏向川をはさみ、二神の誓約によって成り出た神をそれぞれ祭神としていることに、古代神話伝承の原景を見る思いがします。
なお古来より毎年八月二十八日には、大字箸中と芝が相集い、三輪山の麓に鎮座する檜原神社(祭神・天照大神)の大祭を執行しています。
また「日本書紀」崇神天皇六年の条に「天照大神・倭大国魂二神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢いを畏りてともに住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る」とあり、ここ箸中の東、三輪山麓の檜原の地は天照大神の伊勢鎮座以前の宮居のあった笠縫邑の伝承地となっています。
天照大神の祭祀に奉じた豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓所が國津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっています。
國津神社秋季大祭は十月第二日曜日     -境内の案内板より-

拝殿で参拝していると・・・
本殿前まで行けるようになっているではありませんか!
年始の特別サービスですかね♪(特別行事があるのかもしれません)
たぶん、普段は入れないと思います。
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早速、本殿前に進みます!
 
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なんと!狛犬さんが2対居ますよ★
 
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嘉永6年3月建立・・・なんとも重厚な雄姿。
 
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今回の大和路探訪で一番印象に残った狛犬です★
 
そして、もう一対・・・
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この狛犬さんは、古いのでしょうか?
意外と新しいのかもしれませんが・・・
 
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こちらも印象的でした★
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