YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2013年01月

巻向から箸墓古墳へ【大和路探訪記18】

1月1日・・・2013年の朝が来ました
この日の主目的は「山の辺の道散策」です♪
橿原神宮前駅から近鉄で桜井駅へ
桜井駅でJRに乗り換え「万葉まほろば線」で北上。
「巻向駅」で下車・・・駅名だけでワクワクしますね★
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JR万葉まほろば線:巻向駅
 
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現在地は「纒向遺跡」の推定範囲の中です♪
纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。建設された主時期は3世紀で、前方後円墳発祥の地とされている。邪馬台国に比定する意見もあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳を持つ。(Wikipedia)
 
遺跡範囲内にある6つの古墳ですが、今回訪ねたのは2つです。
まず向かうのは「箸墓古墳」・・・駅から南へ向かって歩くと、
古墳の後円部が見えてきました!
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纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられており3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える国の女王「卑弥呼」の墓とする(邪馬台国畿内説)説もある。従来、構築年代が3世紀末から4世紀初頭であり卑弥呼が死亡したされる3世紀前半との時期にずれがあるためその可能性は少ないといわれてきたが、最近年輪年代法炭素年代測定法による年代推定を反映して古墳時代の開始年代を従来より早める説が提唱されており、箸墓古墳の築造年代を卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説も出てきている。
現在は宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されており研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。(Wikipedia)
 
前方部へ周ります。
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倭迹迹日百襲媛命:大市墓
 
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宮内庁管理・・・この掲示板があると立ち入り禁止
聖域・・・つまり発掘できないということですね。
いつも想うのですが、宮内庁は何か隠しているのでしょうか?
古代史・・・あるいは日本史がひっくり返るような秘密があるとか?
いつの日か発掘して欲しいです!
 
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全長約280メートル(戦艦大和とほぼ同じ長さ)
最古級の前方後円墳
やはり、形状から楯築遺跡との関係を連想してしまいます。
 
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箸墓古墳の境界石を見付けました
年代不明ですが・・・戦前、たぶん昭和初期か。
境界石愛好家のYAMATETSUは、少し興奮したのであります★

吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
日本列島の古代史に独特の光を放つ吉備。その中心地帯を望む小高い丘に、他の追随を許さない規模の弥生首長墓がある。遺構のくわしい調査と弧帯文石(こたいもんせき)などの特異な遺物を検討することにより、弥生の葬送祭祀と前方後円墳出現への道筋をさぐる。
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 楯築弥生墳丘墓の発見(不思議な御神体/弥生墳丘墓の発見)/第2章 姿をあらわした大首長墓(巨大な墳丘/中心主体部の追究)/第3章 大首長の葬送祭祀(特別な埋葬/墓上でおこなわれた祭祀 ほか)/第4章 前方後円墳へのかけ橋(多様な弥生墳丘墓/共通する葬送祭祀 ほか)

楯築遺跡(たてつきいせき)は、岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の墳丘墓。楯築墳丘墓ともいう。双方中円墳である。古くは片岡山古墳と呼ばれていた。国の史跡
◆王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓である。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。
◆墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれる。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれている。ここにも吉備津神社鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっている。(Wikipedia)

邪馬台国吉備説、あるいは邪馬台国と吉備との関連を示唆する、「国指定史跡:楯築遺跡」
以前から気になっていたのですが・・・ついに!この本で予習して行ってみることにしました★(そのうち・・・今年中)
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楯築弥生墳丘墓の復元予想図
コレを見ていると、前方後円墳の原型か!?という気もしますが・・・はたして、どうでしょうか

●宮山型特殊器台⇒箸墓古墳
◆宮山弥生墳丘墓(総社市)
◆立坂弥生墳丘墓(総社市)

鳥取雛送り殺人事件

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
浅見光彦が新宿の花園神社を取材中、男性の死体を発見した。男の頭部には桟俵という藁細工が敷かれ、植え込みには凶器と思われる石が置かれていた…。被害者は有名な雛人形作家と判明したが、彼は生前“人形に殺される”と語っていたという。しかも、遺留品の桟俵は鳥取山中の流し雛に使われたものだった。被害者は何に脅え、犯人はなぜ証拠品を残していったのか。捜査をしていた刑事までもが突然失踪し、浅見は神秘的雛人形の世界に封印された迷宮へ-。長編本格ミステリー。

事件の舞台・・・鳥取県八頭郡若桜町
以前から気になっていたのです!
奥因幡・・・隠れ里・・・ワクワクしますね♪
今年はこの辺りで民宿攻略検討か?
若桜鉄道もあるし
平家伝説もあるし★
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鳥取雛送り殺人事件(TBSより)
 
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南方遺跡から中国のやじり 岡山市教委、国内で出土例ない

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★2月2日・・・現地説明会行きたい!

天川の南朝史跡3【大和路探訪記17】

バス出発までの時間はたっぷりあるので、神社でゆったりと・・・
 
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天水分神社
・・・由緒不明・・・
 
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狛犬さんと拝殿
 
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台座には大正11年と記されていますが、本体は最近のモノでしょうか?
 
拝殿の東横には、吉野朝(南朝)の石碑が有ります。
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吉野朝史蹟 河合寺跡
天川郷に行宮をおいていた南朝の天皇方は絶えず北朝方の侵攻にあっていました。黒木の御所としていた河合寺は野川の逆徒の来襲にあい、戦の果てに炎上してしまいましたが、天川郷民は応戦し果敢に戦ったと伝えられています。危険が迫った際には天川郷民が自分たちの庭ともいえる人跡未踏の天川の山中に案内して難を逃れたといわれ・・・。(天川村HPより)
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昭和14年建立・・・
この時期の天川村の人々にとって南朝関連地ということは
相当誇りだったことでしょうね。
 
そろそろバス停「天川川合」に向かう時間
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信州の都市部よりも高いですね!
 
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天川川合から帰り便バスに乗車
帰りは疲れて爆睡です・・・気が付いたら下市口でした
そして下市口から近鉄に乗り換え、無事にホテルへ帰還したのであります♪

 
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ホテルでまったり・・・紅白を観ながら年越しそば
 
年越しの橿原神宮参拝へ向かう予定だったのですが、
疲れと寒さで断念しました
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0時過ぎ・・・橿原神宮前駅付近の風景(橿原オークホテル窓より)
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