山崎に到着して、官兵衛ゆかりの地へ!
ということにしたかったのですが、

山崎を領していた天正8年から天正15年までの
居城(居住地)は不確定なのです。
秀吉の天下統一過程の時期ですから、
軍師としては多忙だったことでしょう。
まあ、ほとんど山崎には居なかったでしょうね。

歴史マップにも出ていますが、

篠ノ丸城が有力候補らしいです。
しかしココは山城なので、省略しました(^_^;)
司馬遼太郎も行ってないし。
「街道をゆく」でも立ち寄っている山崎藩陣屋門を鑑賞しつつ、
官兵衛の山崎に想いを馳せたのでした





別名「鹿澤城」
中世後期の山崎の地には赤松氏傘下の釜内氏が篠の丸山に築いた篠の丸城があったが、1580年(天正8年)に羽柴秀吉によって攻め落とされた。その後、神子田正治・黒田孝高・木下勝俊が城主となった。木下勝俊時代の1587年(天正15年)に篠の丸城の南側、現在の山崎城の場所である鹿沢の地に城を築いたとされているが、鹿沢には羽柴氏以前より城砦があったとする説もある。(Wikipedia)

(略)・・・延宝7年(1679年)大和国郡山藩より本多忠英が1万石で入封し、明治維新まで在封した。忠英の長男は越後国村上藩主本多忠良となったため、2代には次男の忠方が当てられた。忠方は早世し、3代は忠英の三男忠辰が嗣いだ。