78年前の2月26日・・・
2014年02月

備前ではかつて、浦上氏・宇喜多氏などの武将たちが活躍していました。
天正10年(1582)、後の関白・秀吉は、中国地方を中心に勢力を伸ばした毛利氏を打ち破るため、黒田孝高(官兵衛)らとともに、備前へ入ります。
備前は、浦上氏から宇喜多氏へ権力が移り変わった時代でした。
一代で宇喜多氏の地位を築いた直家は前年(1581)に亡くなっており、後を継いだ秀家は秀吉との出会いによって運命が大きく変わります。
今回の展示では備前市内に残る、貴重な中世文書や戦国武将ゆかりの品々を紹介します。
◆主な展示物◆
宇喜多秀家禁制札
黒田如水判物
伝羽柴秀吉寄進陣羽織
羽柴秀吉禁制札
小早川隆景書状
穂井田元清書状
森忠政書状
ということで、先週土曜日・・・開催期間ギリギリで行ってきました。
久し振りに「JR赤穂線」の風景を眺めながら
備前片上駅へ向かいます♪

乗り過ごして伊里駅へ

寒風吹きすさぶ中、一時間待ち・・・

無人駅かと思ったら、
おじさんが出てきて、きっちり徴収されました。
引き返して

備前片上到着!

備前市歴史民俗資料館
企画展示数は少ないものの、その分集中して鑑賞できました。
黒田官兵衛判物とか小早川隆景書状は感慨深いものです。
さらに、説明文等に登場する「浦上氏」など・・・
なかでも『浦上宗景』について想い出しました!
「浦上宗景の最期は??」という件
以前少々調べてみたら、
やはり最期は行方不明ということになっています。
筑前(福岡)で没したという説もありますが・・・どうなったのでしょうか?

檜扇(浦上氏)
・・・天文20年(1551年)、再び兵を率いて備前侵攻に際して政宗と弟の浦上宗景は真っ向から対立。政宗は播磨国室津に、宗景は備前国天神山に根拠を置いて、以後10年にわたり対立し、浦上氏は大きく分裂することになった。政宗は播磨守護代として実効支配を行い赤松氏を傀儡としていたが、永禄7年(1564年)に赤松政秀に襲撃され滅んだ。一方弟の宗景は、備前・美作一帯に一大勢力を築いて、また織田信長と誼を通じるなどして、再び家勢を盛り返した。宗景は、信長には領国の安堵を受けたが、台頭してきた重臣の宇喜多直家と不和となり、毛利氏と結んだ直家は浦上久松丸を擁立して天正3年(1575年)に宗景を打ち破り播磨国に追放した(天神山城の戦い)。ここに戦国大名としての浦上氏は実質的には滅亡した。久松丸はまもなく直家に毒殺され、また宗景は黒田長政を頼り筑前国で没したとされる。(Wikipedia)
・・・天文20年(1551年)、再び兵を率いて備前侵攻に際して政宗と弟の浦上宗景は真っ向から対立。政宗は播磨国室津に、宗景は備前国天神山に根拠を置いて、以後10年にわたり対立し、浦上氏は大きく分裂することになった。政宗は播磨守護代として実効支配を行い赤松氏を傀儡としていたが、永禄7年(1564年)に赤松政秀に襲撃され滅んだ。一方弟の宗景は、備前・美作一帯に一大勢力を築いて、また織田信長と誼を通じるなどして、再び家勢を盛り返した。宗景は、信長には領国の安堵を受けたが、台頭してきた重臣の宇喜多直家と不和となり、毛利氏と結んだ直家は浦上久松丸を擁立して天正3年(1575年)に宗景を打ち破り播磨国に追放した(天神山城の戦い)。ここに戦国大名としての浦上氏は実質的には滅亡した。久松丸はまもなく直家に毒殺され、また宗景は黒田長政を頼り筑前国で没したとされる。(Wikipedia)
だけど なんだか 夕焼け見ると また泣けてくる
先週土曜日のこと、
岡山市在住の戦史研究家:miyake先生から
「備中高松城攻め関連史跡」の探索テーマをいただき
備中国・鼓山(岡山市立田)へ行ってきました


時は天正10年 羽柴秀長布陣の地へ

鼓山山麓の登山口に到着!説明板があります。


秀吉本陣の左翼後方に布陣した秀長は
敵味方の動きを警戒していたことでしょう。
6月2日未明、本能寺で目的を達した明智光秀は
毛利方へ密使:藤田伝八郎を送ります。
しかし、3日未明・・・盲人に扮した伝八郎は
不運なことに(毛利陣営と誤認した?)捕らえられてしまいます。
6月3日未明というのは早いですね!(3日夜説もあり)
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とりあえず、鼓山へ登ってみることに。
登山道はぬかるみ、山頂までの道が途中で途絶えました・・・。
登頂は断念して、視界が開けたところで西方向をながめます。

羽柴秀長布陣の鼓山からの眺望
秀吉本陣の向こう側が、水攻め中の備中高松城・・・視界良好★
下山して、山麓にあるという盲塚へ向かいます。

これがまた意外に難関!

道が無くなり、棘で傷つきながら・・・なんとか進みます

引き返そうかと思った、その時

盲塚視認!

【盲塚】藤田伝八郎の供養塔
『中国大返し』・・・羽柴秀吉が、「信長斃れる」の変報を聞いたのは6月3日夜から4日未明にかけてのことであった。京から200km離れた備中高松の地で、わずか1日後に変報を知りえたことについては、秀吉があらかじめ光秀の謀反を知っていたのではないかとの憶測をまねいており、本能寺の変の「秀吉黒幕説」ないし「秀吉陰謀説」さえ生んでいる[27]。『太閤記』にあっては、光秀が毛利氏にむけて送った密使を捕縛したからと説明されている。また、京の動向を知らせるよう依頼していた信長の側近で茶人の長谷川宗仁の使者から知りえたともいわれている。なお、光秀の密使としては明智氏家臣の藤田伝八郎の名が伝わっており、岡山市北区立田には「藤田伝八郎の塚」が現在ものこっている[20]。
密使捕縛については、日本史研究者の藤田達生が、石井山の秀吉本陣と日差山の小早川隆景本陣とのあいだが直線距離でおよそ5キロメートル離れていることから、密使が敵陣に迷い込むというミスを犯す蓋然性は著しく低く、おそらくフィクションであろうとしている[28]。それに対し、作家の井沢元彦は、光秀もその使者も、高松城が水中に完全に孤立して容易に近寄れない状態となっていたことは充分に予想できなかったと思われるいっぽう、秀吉は船での航行も含め、その通交を面的に厳戒していたはずであるから、密使がその警戒網に引っかかることは充分にありえたとして、事実であった可能性もあるとしている[29][30]。
なお、秀吉に変報が伝わったとき、軍師黒田孝高はそのかたわらにおり、秀吉に主君信長の仇を討つよう進言したといわれている[31][32]。この時毛利氏は、信長との直接対決を回避しようとしていたのであり、ここでは、情報入手における微かな時間差が、その後の両者の命運を大きく分けたことになる[33]。(Wikipedia)

山麓の盲塚をかすめるようにJR吉備線(単線)が通ります。
吉備線に乗車することがございましたら、
備中高松駅と吉備津駅の中間あたりで北側車窓から注視すれば
一瞬だけ御覧いただけますよ

情報を入手した秀吉は稀代の軍師:黒田官兵衛とともに、
すばやく和議をまとめて、6月4日に清水宗治は切腹。
そして、「中国大返し」へということになります。
このあたり『軍師 官兵衛』ではどのように描かれるでしょうか?
楽しみですね~♪
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