YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2014年06月

長渕語・録

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「順子」「ろくなもんじゃねえ」「乾杯」「とんぼ」などの数々のヒット曲。
桜島に7万5千人を集めた伝説のオールナイトライブを初めとする圧倒的ライブパフォーマンス。
「家族ゲーム」に始まり俳優として出演した数々のドラマや映画。
さらには絵画の世界で、東日本大震災後の印象的な被災地支援活動で……。

1978年デビュー以来現在に至るまで、その真摯な姿勢が支持を集める長渕剛。
本書は、デビュー以降、70以上におよぶメディアに掲載された彼の全語録を、長渕剛本人の監修で「愛」「生きる」「怒り」「叫び」の全4章に再構成したものである。

「くそったれ! 人間を、自分をなめんなよ」
「死ぬほど今を生きるんだ」
「命かけなきゃつまんないよ」
「もうダメだ!と思ったときがチャンスよ」
「俺には希望しか見えない」
…など、デビュー以来、傷つき、戦い、叫び、全力で走り続けてきた男の言葉の数々を紹介。
つまずいたとき、泣きたいとき、悔しいとき、人を信じられないとき、ひどく裏切られたとき…勇気と力が湧いてくる「長渕剛の言葉のアルバム」。

★永久保存本です★

ダビデの星の暗号

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伊達綱宗・後西天皇・御家騒動
歴史から消された真実、そして暗号・・・興奮しました
 
後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日1638年1月1日) - 貞享2年2月22日1685年3月26日)、在位:承応4年11月28日1655年1月5日) - 寛文3年1月26日1663年3月5日))は、江戸時代の第111代天皇幼名を秀宮、良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。
もっぱら学問に打ち込み、『水日集』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。治世中には伊勢神宮大坂城内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責め、これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている(『翁草』巻19「新帝践祚の事」)。また、中御門宣順の『宣順卿記』寛文2年9月23日条・壬生忠利『忠利宿禰記』同日条にも徳川家綱の使者である吉良若狭守(高家吉良義冬)が女院(東福門院)に譲位を申し入れたとする伝聞記事を記している[2]。これらの記事を前提として天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇[3]江戸幕府[4]が挙げられ、更に有力外様大名仙台藩主)の従兄という天皇の血筋が問題視されたとする説がある[5]。ところが、近年これに対して譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている[6][7]。(Wikipedia)

300 帝国の進撃

【あらすじ】100万もの兵を率いてギリシャ侵攻を図るペルシャ帝国を相手に、300人の精鋭と共に戦いを繰り広げた果てに命を落としたスパルタのレオニダス王。彼の遺志を継ぐようにしてアテナイのテミストクレス将軍(サリヴァン・ステイプルトン)は、パン屋、陶工、詩人といった一般市民から成るギリシャ連合軍を率いてペルシャ帝国に立ち向かっていく。ペルシャ帝国の海軍指揮官アルテミシア(エヴァ・グリーン)らと拮抗する中、ついに大海原を舞台にした最終決戦を迎えることに。
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紀元前480年8月、ギリシア連合軍はテルマ(テッサロニキ)から南下してきたペルシア軍と両地(テルモピュライおよびアルテミシオン)で衝突した。スパルタが主力となって防衛にあたったテルモピュライの戦いではカルネイア英語版古代ギリシア語: Κάρνεια)の祭によってスパルタは少数の兵しか出仕できなかった上、地元民に内通者が出てペルシア軍に迂回路を教えたために背後を突かれ、スパルタ王レオニダス1世の奮闘むなしく防衛線を突破された。テルモピュライでの敗退により、ギリシア軍はアルテミシオンからの撤退も余儀なくされ、日和見的な立場をとっていたボイオティアの各ポリスは親ペルシアの意志を明確にし、これに追従するかたちでカリュストス英語版テノス英語版などアッティカに隣接するポリスにも親ペルシアの動きをとるものが現れた。
ペルシア軍の接近を受け、テミストクレスの布告により、アテナイ住民はトロイゼン、アイギナ、サラミスに避難した。しかし、避難の費用は自己負担だったため、財力のない貧民と一部の聖職者、あるいはデルフォイの神託を誤って解釈した者はアテナイのアクロポリスに籠城した。ペルシア軍の前にアクロポリスは陥落し、アテナイは完全に占領された。
アテナイの要請で避難の支援のためサラミス島に集結していたギリシア連合は、次の防衛策を検討した。ペロポネソス半島の諸国は、アテナイが制圧された以上、アッティカ半島の防衛は不要と考え、イストモスに防衛線を築くことを主張した。しかし、テミストクレスは断固反対し、敵味方双方を篭絡して、なし崩し的にサラミス水道での海戦にこぎつけた。ギリシア連合艦隊をまとめあげることに成功したテミストクレスは、地の利を生かしてペルシア艦隊を破った。
紀元前480年サラミスの海戦の敗北によってクセルクセス1世は戦意を喪失し、マルドニオスに後を託し、自身はバビロニアの反乱を鎮めるため帰国した。陸上部隊はギリシアの総司令部のあるイストモスのポセイドン神殿に入ったが、ギリシアの防衛線に攻撃は行わず、テッサリアからマケドニアまで退いた。(Wikipedia)


昨日夜、鑑賞に。前回の「300」からの続編!
大げさな演出で良かった~海戦とかも★

黒田官兵衛が活躍した時代の岡山

先週のこと・・・やはり行っておかないといけませんな!
 
ということで、
岡山シティミュージアムへ
 
興味深いお話でした
詳細は
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第37回 岡山戦災の記録と写真展

先週のこと、今年も行ってきました。
69年前の6月29日の出来事。
岡山空襲
参考に過去記事を。
 
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