YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2014年09月

ヌートリア出現!~大阪城の外来種~【初秋大阪散歩5】

真田山陸軍墓地から北上して大阪城公園にやってきました♪
 
遠くに猫??のようなものが見えます!
ひさしぶりに猫の撮影できそうかな~と思って近づくと・・・
 
なんと!
 
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ヌートリアが!\(◎o◎)/!
 
遠くで泳いでいるのは見たことがありますが・・・こんなところに!
(大阪城の堀に棲んでいるようですね)
 
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こんな至近距離で!
 
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よく見ると・・・意外とかわいいですな~💛
 
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動きも愛嬌があるし💛
 
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カピバラさんに対抗できそうな感じ💛
 
しばらく観察してたら3人に訊かれました。
「これは何ですか?」
「ヌートリアという外来種のネズミですよ(^O^)」と教えてあげました。
あまり有名ではないようですね・・・残念。
 
そうそう、ヌートリアといえば、
この面白話を思い出しました~(*^▽^*)ぜひ見てね★
 
 
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ヌートリア(Nutria、中国語 海狸鼠、学名:Myocastor coypus)は、ネズミ目(齧歯目)ヌートリア科に属する(以前はカプロミス科に分類されていた)哺乳類の一種。別名沼狸南アメリカ原産。日本には本来分布していない外来種で、特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律では指定第一次指定種に分類されている。
かつての日本では、沼狸(しょうり、ぬまたぬき)、海狸鼠(かいりねずみ)、洋溝鼠(ようどぶねずみ)、舶来溝鼠(はくらいどぶねずみ)などとも呼んだ。
日本では、第二次世界大戦終戦後、毛皮の需要が激減したことに伴い、飼育されていたものの多くが野外に放逐された。また、1950年代の毛皮ブームでは本種の飼育が流行したが、その後の毛皮価格の暴落に伴い、このときも多数が野に放たれ、野生化している。これらの子孫が各地で定着し、アライグマと同様に野外繁殖が問題となっている岐阜県可児川をはじめとした東海より西の西日本各地(広島県岡山県大阪府京都府島根県香川県近畿東海の各府県)に分布が拡大している。(Wikipedia)

戦国大名の城を読む 築城・攻城・篭城

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城から見えてくる戦国大名の野望や戦略を読み解く!!

戦国時代から江戸時代初期にかけて、各地の群雄が生み出した城は数多い。
その特徴や機能に着目し、築城から攻城、籠城にまつわるエピソードなどもたどりながら、
歴史を紐解く一冊。
武田信玄、北条氏康、毛利元就、織田信長、豊臣秀吉、加藤清正、徳川家康、藤堂高虎、
伊達政宗……戦国大名の城を通して、彼らの野望や戦略を読む!
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
戦国時代から江戸時代初期にかけて、各地の群雄が生み出した城は数多い。その特徴や機能に着目し、築城から攻城、籠城にまつわるエピソードなどもたどりながら、歴史を紐解く一冊。武田信玄、北条氏康、毛利元就・織田信長、加藤清正、徳川家康、藤堂高虎などの城から、それぞれの戦略や野望が見えてくる。
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 戦国時代の城ー中世の山城(武田信玄の城/北条氏康の城/毛利元就の城 ほか)/第2章 織豊期の城ー近世城郭の誕生(織田信長の城/豊臣秀吉の城/加藤清正の城 ほか)/第3章 近世の城ー近世城郭の完成(徳川家康の城/藤堂高虎の城/伊達政宗の城 ほか)
【著者情報】(「BOOK」データベースより)
萩原さちこ(ハギワラサチコ)
ライター、編集者、城旅ナビゲーター。書籍・雑誌の執筆業を中心に、テレビ・ラジオ・イベント出演、城めぐりツアーの専任ガイドもこなす(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


萩原さちこさんが司会をされるということなので、
著書を読んでみました★
因州鳥取へ潜入してきます~\(^o^)/
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第21回全国山城サミット鳥取大会が2014年9月28日に開催されます。
芸能界一のお城マニア・春風亭昇太師匠の記念落語、
大河ドラマの時代考証ご担当の小和田哲男先生による官兵衛がテーマの記念講演、 そして中井均先生もご登壇のパネルディスカッションと、豪華です!
しかも無料!先着1300人!
どんな鳥取城の魅力に出会えるのでしょうか。
関東からはちょっと遠いですが、この機会にお城ファンはぜひ集結しましょう。
私はパネルディスカッションの司会という大役を、
僭越ながら中井先生と務めさせていただくことになりました。
前日の9/27(土)には史跡鳥取城跡山下ノ丸見学会もあります。
9/27&28は第11鳥取藩主池田家墓所燈籠会、
第15回鳥取三十二万石お城まつりも開催されます。
豪華イベント目白押し。 詳細は、鳥取市公式ウェブサイトで→

陸軍境界石柱~真田山陸軍墓地~【初秋大阪散歩4】

真田山陸軍墓地の情報と併せて探索・・・境界石が3点確認できました★
 
史跡指定された物件や文化財などのように保護されているものは、もちろん魅力的なのですが、境界石などのような消滅しても仕方ないものが残存していたりすると、とても価値を感じるのです。
 
 真田山陸軍墓地の境界石柱
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陸軍(用地?)
裏面
 
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境界査定標
 
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陸軍(用地?) 
 
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陸軍省所轄地
 
 
【参考】福山陸軍墓地の’奥が深い’境界石

真田山陸軍墓地~最古にして最大規模~【初秋大阪散歩3】

真田丸跡の三光神社から同じ丘陵・真田山にある陸軍墓地へ
この「真田山陸軍墓地」は国内最古にして最大規模であります。
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 航空写真でも確認できる整然と並ぶ墓石群
 
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真田山陸軍墓地
慶長14(1615)年の大坂冬の陣に際し、大坂方の眞田信繁(幸村)が大坂城唯一の弱点である南側惣構の外側に築いた「眞田丸」の跡と言われる本来の「眞田山」(明星高校付近)に隣接した宰相山にあります。
昭和初期になり隣接の眞田山が有名過ぎたことから、この付近も眞田山と呼称されるようになったようです。明治4(1871)年4月10日、我が国初の「埋葬地」として制定されて以来、大東亜戰争停戦を挟み現在も良好な状態で保存されています。
全国的にも最大規模の陸軍墓地であり非常に貴重な霊域ですが、墓碑の経年劣化が進んでいます。
眞田山陸軍墓地は明治維新以降の各戦役(佐賀の乱から大東亜戰争)の戦病没者に加え、大阪鎭臺及び第四師團隷下部隊の平時の病没者、軍役夫、警官から俘虜、さらに獄死、自死、喧嘩による死者等不名誉な死者も合わせて埋葬されています。
墓地の名称について、一次資料には「眞田山埋葬地」、「眞田山陸軍墓地」、「大阪陸軍墓地」とあり「大阪」と「眞田山」のどちらを冠するのかは定かではありません。
しかし、同じ大阪に「高槻陸軍墓地」もあり、混同をさけるには一般的な「眞田山陸軍墓地」で良いと思います。
 
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5000基を超える墓石群は主に明治の日清・日露戦争関連が多く
見どころの数々はブログでは紹介しきれませんが、その一部を・・・。
 
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 軍役夫のブロック
 
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第一次大戦におけるドイツ人俘虜の墓
補修している部分は「俘虜」の文字が削りとられています。
 
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日清戦争における清国人俘虜の墓
こちらも「俘虜」の文字が削りとられています。 
 
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墓石には全国各地の出身地が刻まれています。
 
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墓地最大:今井少将の墓
 
破損が進む墓石も多くありましたが、
今後もこの景観が維持されることを望みます。
 
【参考】旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/

真田丸攻防戦400年~真田山:三光神社~【初秋大阪散歩2】

 鶴橋から北上して真田山運動公園を通り抜け、宰相山公園(通称:真田山)へ♪
 
大坂冬の陣で真田幸村(信繁)が活躍した大坂城の出城『真田丸』
その真田丸の主郭がどの場所かというのは諸説あり不明とされていますが、
この場所が、真田丸の一部であったということは間違いありません!
今回は、その一角にある「三光神社」を訪れ真田丸攻防戦を偲んでみようかと。
 
その昔、NHK「真田太平記」を観て以来・・・
クライマックス大坂冬の陣における真田丸にいつか行こうと想っておりました。
なぜか今まで行きそびれ、今回目的を達成!
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「左衛門佐!わ主ならどう攻める?」
「私なら・・・南から攻め入ります」
「なにゆえじゃ?」
大阪の陣から数年前・・・配流先の紀州・九度山にて
戦国きっての知将・謀将ともいわれる真田昌幸と幸村の問答!
(重厚な演技は何回観ても、しびれますなあ
 
ついに慶長19年(1614年)
すなわち現在から400年前
真田昌幸死後、幸村により「出城」の件は具現化され
大坂城の南に真田丸は完成します。
(もうそれだけで感動的・・・
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総構えの外に
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真田丸完成
 
 「前田が動けば他家は必ず動く
戦とはそういったものじゃ!」
 この真田丸攻防の勝利で
真田左衛門佐幸村の名は
一躍天下に鳴り響いたのである!!
洛中あるいは近江の瀬田あたりまで進出して関東勢を錯乱させつつ
天下の形勢転換を謀るというのが幸村の戦略だったでしょうが
豊臣方は大坂籠城に決します。真田丸で活躍もして、
籠城策の中では最高の序盤戦となったといえましょう。
その後最悪の和睦に・・・
真田丸の戦い(さなだまるのたたかい)は、徳川氏に率いられた江戸幕府軍と、、豊臣家との間で戦われた大坂の陣のうち、1614年慶長19年)末に発生した大坂冬の陣における戦いの一つ。一般に、呼称の示すとおり真田丸のみで戦闘が起こったように思われているが、実際は大坂城南側全面に渡って戦闘が発生している。
豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、幕府軍は大坂城を完全包囲した。真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直松倉重政榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。真田丸には真田信繁指揮の兵5,000[1]、八丁目口・谷町口には木村重成後藤基次長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。(Wikipedia) 
 
県立図書館で事前調査して
江戸時代:摂津名所図会の真田山を確認しましたよ★
「狐穴多し」とありますが・・・狐穴って見たことがありません。 
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摂津名所図会:真田山
 現在の真田山へ
 
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三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園にある神社である。天照大神月読尊素戔嗚尊を祀る。
鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田幸村が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったという。社殿の下に残っているが、これは後世作られたものである。境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。(Wikipedia)
 
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 真田幸村公之像
 
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 史跡 真田の抜穴跡
 
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 やはり潜入の衝動が・・・覗いてみました★
 
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 行先は大坂城本丸か!?
 
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そして三光神社の狛犬さん鑑賞
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 明治43年建立
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この うずうずが素晴らしいですね~★ 
 

 
【参考】お近くの方はどうぞ(/・ω・)/
現代の真田戦士も参加!
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