YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2015年01月

朝日将軍木曽義仲の墓~木曽町・興禅寺墓所~【冬の中部散歩7】

福島関所跡から木曽川を渡り対岸へ♪
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興禅寺~木曽義仲廟所~
源 義仲 (みなもと の よしなか )は、平安時代末期の信濃源氏武将河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍[注釈 1]となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
墓所
滋賀県大津市馬場の朝日山義仲寺
京都市東山区法観寺(首塚)
長野県木曽郡 徳音寺
(Wikipedia)

各地にある義仲の墓・・・この興禅寺には、遺髪墓があります★イメージ 2
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木曽義仲の墓
平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。 (Wikipedia)


評価が分かれる義仲ですが、最初に入京したことは「英雄」に値するでありましょう

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木曽家の墓
木曾氏(きそし)は、南北朝時代から室町時代後期にかけて信濃国南部の木曾谷を領した国人領主。戦国時代の木曾氏は、かつて治承・寿永の乱で木曾谷から発して上洛を果たした木曾義仲の子孫を自称した(義仲の子である義宗(夭折)の末裔と自称)。実際には本姓は藤原氏上野国沼田郷を拠点とした沼田氏藤原秀郷流)とされ、沼田氏の当主の沼田家国(伊予守)の子で、義仲の義弟(義仲の側室の弟)で、義宗の母方の叔父でもある木曾基宗(刑部少輔)が「木曾氏」と称して、義仲・義宗父子の末裔と仮冒し、信濃国西筑摩郡木曾谷を支配したとされる。(Wikipedia)

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山村代官(木曽代官・福島関所関守)の墓


そして、数分歩いて山村代官の屋敷跡地へ
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山村代官屋敷
山村代官屋敷(やまむらだいかんやしき)は木曽代官・福島関所関守を務めた山村氏の屋敷の建物・庭園等の一部を整備したもの。隣接する福島小学校も山村氏の屋敷の跡地である。(Wikipedia)

義仲~木曽氏~代官・・・移り行く木曾谷の歴史を感じる場所でした

狛犬巡りin京都\(◎o◎)/!(情報)

京都の狛犬を巡り尽くした方と、

春コースの打ち合わせ。秀犬、猛犬、珍犬、駄犬…コマイヌの生態をめぐる。


近場だったら絶対行くのに・・・(ノД`)・゜・。
どなたか参加してみてくださいね♪

時間の習俗

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 『時間の習俗』(じかんのしゅうぞく)は、松本清張の長編推理小説。雑誌『』に連載され(1961年5月号 - 1962年11月号)、1962年11月に光文社カッパ・ノベルス)から刊行された。
ミリオンセラー点と線』の三原警部補と鳥飼刑事が再び探偵役となり、犯人が仕組んだアリバイに挑戦するミステリー長編。小説の時代設定は『点と線』から4年後とされている[1]
 関門海峡に面した門司市の古社・和布刈神社において、旧暦元旦の未明に行われる神事に対する、写真撮影が殺到していた。他方、その前日深夜23時頃、神奈川県相模湖近くの弁天島で、交通関係業界紙の編集人・土肥武夫の死体が発見された。土肥の投宿していた宿の女中は、女性が同行していたことを証言するが、その女性は行方不明になっていた。
有力な容疑者も挙がらず手がかりが掴めない中、三原警部補は土肥の交際人物のリストから、行動に作為の感じられるタクシー会社の専務・峰岡周一に着目する。だが、峰岡には完全なアリバイがあった。(Wikipedia)


 
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メイプルビスケットにハチミツをかけつつ、
アリバイ解明にのめり込みました★
 
和布刈神事の見物参加は無理ですが・・・
そのうち、和布刈神社には行ってみなければなりませんな( ̄ー ̄)
 

歴史講演会『福山藩の農民はどのように 年貢を負担したか』~備陽史探訪の会:新年度行事~

昨日(1月24日)、福山市の備後遺族会館にて
 
昨年度に続き『備陽史探訪の会』新年度行事に参加しました♪
 
日本史上の農民の生活が気になる歴史ファンとしては、
楽しみにしていた講演会から
イメージ 1講演会『福山藩の農民はどのように 年貢を負担したか』
尾道市立大学名誉教授 勝矢 倫生 
 私はこれまでほぼ35年間にわたり、徳川期芸備地域の地方書の研究に取り組んできました。初期の20年間、広島藩の地方書研究に取り組んだ後は、もっぱら福山藩の地方書研究に没頭してきました。地方書(じかたしょ)とは、天領あるいは諸藩の地方役人や庄屋などの村役人によって、農政を進め、農村を治めるための指導書あるいは実務マニュアルとして活用されることをめざして記された著書のことを言います。地方書は、租税徴収法のほか、農村支配・農村生活全般に及ぶ多彩な内容を含む、徳川期の農政・農村の実状を探る上できわめて貴重な研究素材です。
 今度の講演では、福山藩の地方書「郷中覚帳」を中心に、「郡中町方明細記」など他の地方書も併せて解析することを通して、阿部氏治世期福山藩における水田稲作に対する租税徴収の仕組みについてお話しさせていただきます。福山藩では、水野氏・松平氏時代には、徴租法として検見制が採用されていましたが、阿部氏は土免制を採用しました。土免制の下で年々の年貢率は固定されましたが、凶作年度に限り、農民は申請すれば検見見分を受け、一定の引高が認められ、年貢を減免してもらうことができました。また、水害・旱魃などで皆損、つまり稲が壊滅状態になった時、一毛荒(ひとげあれ)の申請を行ない、藩役人の見分を受け、許可されれば年貢の丸引きが認められました。一村坪入検見から人別作平均検見へ、さらに相対検見へ、凶作年度に実施される検見の仕法にも推移がみられました。
 福山藩では、米作以外に綿作・藺作・麦作・稗作など多様な作物作付けについてそれぞれきわめて精緻な徴租法が構築されていました。福山藩の地方書研究を進めた結果、これまでほとんど研究が進んでいなかったそれらの諸作物に対する徴租法をかなり詳細に明らかにすることができました。今度の講演では、米作に対する年貢徴収法に絞って、その仕組みをなるべく平易に噛み砕いてお話しさせていただくつもりです。http://bingo-history.net/より
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興味深い石高制のしくみや年貢徴収の方法や計算など
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検見制と定免制・・・初めて聞いた「土免制」
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水害・干害で影響を受けたり
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江戸時代の農民の労苦が偲ばれましたが・・・
やはり古代や中世の農民と比べて生活は楽だったのかな?
とか想ったりしたのでした。
 
つづいて総会
そして新年会という流れで・・・
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というわけで・・・
 
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備後福山の夜はふけていったのでした

発掘調査速報展~岡山市埋蔵文化財~

昨日(1月24日)の午前中・・・時間を調整しつつ行ってきました♪
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最近数年の発掘成果をあらためて鑑賞★
 
最近は現地説明会がないので、
その情報を心待ちにしつつ展示室をあとにしたのでした。
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千足古墳出土埴輪(部分)
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