YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2015年04月

球形の荒野

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新聞記者・添田彰一は、恋人・野上久美子の父が「戦時末期にスイスで病死」と報じられたにもかかわらず、生きているのではないかという疑惑を確かめるため、ひそかに取材を始める。とたんに立ちはだかる障害。どんな事実が戦争末期から今まで隠されてきたのか? 久美子の回りに起きる奇怪な事件の意図は? 戦争終結時の国際外交の裏舞台と絶ちがたい骨肉の愛が交錯し、そこに殺人事件が発生する。松本清張ならではのスケールで描く、国際謀略ミステリーの傑作!


明日は、豊前小倉へ♪

いよいよ訪問するのです★

松本清張記念館!
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金色の屏風~描かれた物語と花鳥~

先日、土曜日鑑賞に行ってきました♪
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屏風は室内の間仕切りに用いる調度品です。桃山時代から江戸時代にかけて、きらびやかな屏風は権力者の居室を飾るだけでなく、贈答品としても用いられました。本展では「金色」を主題に、選りすぐりの屏風を展示します。勇壮な「秦漢物語図屏風」(江戸時代前期)、雅な「源氏物語図屏風」(同)などの合戦図や物語絵、絢爛豪華な重要美術品「桐鳳凰図屏風」(江戸時代初期)など花鳥を描いた屏風と共に、主題にちなんだ工芸品もご覧いただきます


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桐鳳凰図屏風(部分)

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秦漢物語図屏風(部分)
項羽と劉邦の戦い

などなど・・・

この日はスペシャルギャラリートークに参加して
曽我物語図屏風の詳細解説を聴いたりして、
まさに屏風の「裏側」を垣間見る事ができたのであります\(^o^)/
堪能しました

木口小平を偲ぶ~比治山陸軍墓地2/2~【廣島潜入記9】

この陸軍墓地には、
近代初の対外戦争で英雄になった木口小平の名前が刻まれています。
そう、ここで想い出すのは・・・
「木口小平」と「白神源次郎」
参考に過去記事をご覧ください!
【備中喇叭卒攻略作戦前日】http://blogs.yahoo.co.jp/yamatetsu1441/4191498.html

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大正7年、尋常小学校1年生用修身教科書
死しても尚ラッパを口から離さなかったラッパ手の噂話は、早くに内地に伝えられた。その喇叭手は誰かということが話題となり、軍は調査の結果その喇叭手は実在し、名は「白神源次郎」であると発表した。岡山県浅口郡船穂村(後の倉敷市)出身の歩兵一等卒・白神源次郎の武勇は国民に広く伝えられ、また海外にも発信された。教科書にも採用され7年後に名前を変えられるまで使われた。
日清戦争後に、第5師団司令部は「諸調査ノ結果彼ノ喇叭手ハ白神ニ非ズシテ木口小平ナルコト判明セリ」と発表しなおした。白神は入営当時21連隊の喇叭手であったが予備役召集の時点では喇叭手ではなかった。木口は喇叭手であり白神と同日の戦死であった。なお白神の死因が戦闘中の溺死であったことも「不都合」とされた。師団発表当時はまったく無名の木口に名前が置き換わったことに国民の間に驚きもあったし、すでに有名になっていた白神源次郎の名前はなかなか改まらなかった。
白神源次郎の記念碑は1906年(明治39年)に立てられたが、木口小平の記念碑は1914年(大正3年)になってからである。義務教育の無償化と1903年(明治36年)に始まった国定教科書制度で、木口の名前が国民全体に徐々に浸透し、木口の顕彰も盛んになった。故郷である岡山県川上郡成羽町(現在の高梁市成羽)に「壮烈喇叭手木口小平之碑」がつくられた。
1902年(明治35年)に発売され、後年正露丸と改称される胃腸薬の「忠勇征露丸」に描かれているラッパのマークは木口の話を参考にした、との逸話が在るが、これは年代的には白神の話ということになる。(Wikipedia)

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墓地の説明板

墓地の正面にある
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日清戦争合同碑
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歩兵第二十一聯隊第一大隊・第二大隊・第三大隊
この第三大隊の裏面に刻まれています。
明治27年7月29日 於朝鮮国成歓戦死 陸軍歩兵二等卒 木口小平
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成歓の戦い(せいかんのたたかい、ソンファン-)は、日清戦争の最初の主要な陸戦である。成歓・牙山の戦いとも呼ばれる。
1894年6月8日に、葉志超総督、聶士成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、歩兵約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した[1]。7月24日時点で3880名に達する[2]。7月25日に朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、牙山の清国軍撃退が要請され、7月26日に混成第9旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。
7月28日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃するため出発。7月29日午前3時20分、佳龍里おいて清国兵の攻撃により歩兵第21連隊第12中隊長・松崎直臣歩兵大尉が戦死し(日本側初の戦死者)、他数名が死傷した(安城の渡しの戦い)[3]。午前8時30分に日本混成第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する[3]
大島旅団長は清国軍の主力が牙山にあるとし、7月29日午前に全旅団に牙山へ向け出発を命じた。午後3時頃、牙山に到達したが、清国軍は敗走していた[4]
この作戦の日本側の死傷者は88名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。(Wikipedia)


ここで帰路の都合もあり、残念ながら時間切れとなりました。


ということで、
【廣島潜入記終了】
ありがとうございましたm(__)m

全国からの英霊~比治山陸軍墓地1/2~【廣島潜入記8】

比治山の参道を通り、陸軍墓地へ
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比治山陸軍墓地
1872年(明治5年)の広島鎮台設置に合わせ[2]、鎮西鎮台の兵士を弔う国有墓地として整備[2]第二次世界大戦の戦中戦後の混乱を経て、1960年(昭和35年)に現在の形に再建された[1][3][4][補足 1]
1877年(明治10年)の西南戦争から[1][3]第二次世界大戦までの約4,500柱が埋葬[3]。約3,500基の墓石が並べられている[1][3]沖縄県以外の日本全国の兵士の他、中国ドイツフランスの兵士の墓もある。(Wikipadia)

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整然と並ぶ墓石群

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全国各地から
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墓地の一角には、
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フランス人墓地
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清朝の動乱(1900)・・・各国に影響を与えたようですね
比治山陸軍墓地の一角にフランス人墓地が整備されている。1900年(明治33年)の北清事変で死亡した兵士を埋葬する為に、現在地に同年、造園された。第二次世界大戦中の陸軍墓地の破壊の時も、そのまま残されている。
フランス艦隊が宇品港に来港した時は、乗務員はフランス人墓地に墓参した。
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義和団の乱(ぎわだんのらん)は、1900年に起こった、中国朝末期の動乱である。
義和団事件義和団事変北清事変(ほくしんじへん)・北清事件(ほくしんじけん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、当初は義和団を称する秘密結社による排外運動であったが、1900年光緒26年)に西太后がこの反乱を支持して清国が6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった[1]。だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌の変法を手本としたいわゆる光緒新政を開始した。(Wikipadia)

陸軍省所轄地~比治山の境界石柱~【廣島潜入記7】

そして、
比治山の近代以降の話・・・

1872年(明治5年)に、旧日本陸軍陸軍墓地の整備を決定[14]。1898年(明治31年)、比治山は江波山とともに公園として整備することが許可され、そのころから比治山公園と呼ばれるようになった[15]。1908年(明治41年)から広島市が公園として整備しだした[16][13]。戦前から市内有数の桜の名所であった[13]。また、当時はツツジの名所でもあった[17]。1909年(明治42年)に御便殿が移設[17]。陸軍墓地と御便殿は2大名所となった[17]。(Wikipadia)

かつて、
帝国陸軍が整備した『陸軍墓地』へ向かいます。

その途中、
陸軍関係の境界石柱を発見しました!

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「陸軍省所轄(地)」
近づくことができず、裏面の視認ならず!

それから、
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「陸軍墓地参道」
(昭和14年建立)

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