YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2015年06月

神武天皇の磐境~黒崎:一宮神社~【豊前国紀行26】

つづいて、もうひとつの神武天皇ゆかりの地へ
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岡田神社から西へ歩き一宮神社へ

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一宮神社

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一宮神社拝殿

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神武天皇の磐境
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磐座・磐境(いわくら・いわさか)
祭りに際して神が降臨する岩石もしくは石を築きめぐらした一定の場所のこと。社殿建築以前の古代祭祀における祭場という説が有力。奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社は,現在も社殿がなく三輪(みわ)山を神体とすることで有名であるが,山内の禁足地にたくさんの磐座群がある。また各地の神社に降臨石・影向(ようごう)石などが残っているが,これも磐座の一種である。愛知県の尾張大国霊神社,長野県の生島足島(いくしまたるしま)神社,石川県の気多(けた)神社などには,大きな石を環状に並べた遺跡があり,磐境祭祀のなごりともいわれる。https://kotobank.jp/word/%E7%A3%90%E5%BA%A7%EF%BD%A5%E7%A3%90%E5%A2%83-1147116
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清浄な土地を選び、この場所で祭祀が・・・・・・さすがに幽玄で神秘的な空間です

筑紫の国に一年滞在した神武天皇は東へ向かい安芸の国へ
いつの日か安芸のゆかりの地にも行ってみようかと・・・そう、やはり日向にも行かなければなりませんが・・・遠いですね。

ということで、
豊前国周辺の目的地の見聞が終わり、黒崎から小倉へ・・・帰路についたのでした。



以上、【豊前国紀行】 終了
ありがとうございましたm(__)m

筑紫の岡田宮:神武天皇逗留地~岡田神社~【豊前国紀行25】

宇佐から北上して小倉で乗り換えて西へ…国境を越えて筑前国へ…北九州市の黒崎にやってきました♪
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豊の国から筑紫の国へ・・・神武天皇の東征伝説を追って移動してきたということです。

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黒崎駅から南へ徒歩数分・・・神武天皇ゆかりの岡田神社へ

【参考】↓北九州市在住の狛犬研究家の方の記事をご覧ください★

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岡田神社【岡田宮】
岡田宮(おかだぐう)は福岡県北九州市八幡西区黒崎地区にある神社で、正式には岡田神社古事記神武天皇東征の折に逗留したと記載されている古社で、天・地・人の三ノ宮を有する。 毎年七月に岡田宮へ奉納する黒崎祇園山笠は北九州の風物詩として有名である。
かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まりとされ、そのためにこの地域一帯を『熊手』と号したといわれる。後、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、この地に1年間逗留し八所神を祀ったとされ、神武東征にある岡田宮の候補地の一つである。 (Wikipedia)


諸説あり、本来の場所から遷座しているようですが・・・まさに筑紫の岡田宮ということになります。

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連なる鳥居の中を進み

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神武天皇東征の痕跡はありませんが、
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御大典記念碑の裏に刻まれています。
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岡田宮坐一年

ということで、
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文政10年(1827)の狛犬さんを鑑賞しながら、遥か古代の伝承に想いを馳せたのでした

そして、もうひとつの黒崎における神武天皇ゆかりの地へ向かいます・・・次回へつづく

逆説の世界史(1)古代エジプトと中華帝国の興廃

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
ピラミッドの建造技術を断絶させた言霊信仰、「ファラオの墓」という定説の大いなる矛盾、中華文明を600年も停滞させた儒教社会の呪縛ほか、全世界必読の文明論。
【目次】(「BOOK」データベースより)
序章 人類はいにかして文明を持ったかー通史としての世界史を書く方法論(民族、宗教、イデオロギーを超越した新たな視点/時代分類は「利器の材質」から「情報蓄積ツール」へ)/第1章 古代エジプト文明の崩壊ー科学技術情報を隠蔽したファラオの言霊信仰(なぜ巨大ピラミッドが建造されたのか/ヒエログリフと文字の起源)/第2章 中国文明の力量と停滞ー六百年も停滞し続ける「中華思想」国家の臨界(儒教文明の呪縛と毛沢東の文化大革命/朱子学国家が東アジアに与えた悪影響/歴史を改鼠する中国共産党の偏向教育)


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エジプト編の、ピラミッド建造は公共事業らしい・・・というのは聞いたことがありますが、
ピラミッドその物は「王の墓ではない」そして、ビラミッドの「建造目的と建造方法は全く解明されていない」というのが現在の定説?になっているようですね。
世界の七不思議の中で原型をとどめているのはピラミッドだけ・・・。宇宙人建造説を支持したくもなります。

一般的に挙げられる七不思議は以下の7つである。(Wikipedia)
謎は深まるばかりという感じですが・・・本文中でも登場した「言霊」\(◎o◎)/!…内容は控えます★

それから、中国編の「儒教」について・・・現在も東アジアに大きな影響を与えるその事例の数々には驚くことばかり・・・是非とも中国・韓国・北朝鮮の人々にも、この本を読んでもらって感想を聞いてみたいと想ったりしたのでした。
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別件ですが、検索中に偶然知った「日本ピラミッド」・・・??
いつの日か行ってみないといけませんな・・・コレは↓

岡山縣鳥瞰図1930(岡山県交通略図)~大正の広重:吉田初三郎~

先日の展示品↓の中で気になっていた地図(岡山縣鳥瞰図)を鑑賞するため県立図書館へ♪
展示解説文の中に「陸軍特別大演習」の文字を見つけたので、観ておかなければなりません。

この地図は岡山県の名所を描いた鳥瞰図で、昭和5年(1930)に昭和天皇による陸軍特別大演習に際して岡山県が発行しました。
鳥瞰図画家として全国的に有名だった吉田初三郎が県内をスケッチして作成。昭和天皇に賞賛を受けた吉田初三郎は「大正の広重」といわれていたそうです。

今回、図書館に保存されていた『実物』を手に取ることができました。ということで、その鳥瞰風景の一部を・・・。

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貴重資料閲覧室にて【写真撮影可】

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岡山縣鳥瞰図(岡山県交通略図)

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大本営での天覧地図ですね。

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市街地の歩兵・工兵・練兵場など

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県北の日本原演習場

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木口小平の墓まで載っています。

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気になる高島(神武東征伝説)

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この高島も気になる(神武東征伝説)

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船舶や

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鉄道も

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よく見ると車が相当台数走っていたりして・・・・・・良い鑑賞ができました

トラキア黄金文明の聖地ズボリャノヴォの新発見−ブルガリア考古学の最新情報− (オリエント美術館)

先日、久々に世界史に触れるべく、申し込みをしていた「特別講演会」に参加しました♪
なんと、はるばるブルガリアから研究者の方がやってこられるということなので・・・それに加えて地方都市での開催をありがたく想ったりしたのでした。
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2頭立て馬車の馬の出土状況Photo by Prof. Dr. Diana Gergova
ブルガリア北部に位置するズボリャノヴォは、紀元前4~3 世紀の騎馬民族トラキア人の聖地で、ユネスコ世界遺産に登録されたスヴェシュタリを含む多数の古墳が築かれました。ディアナ・ゲルゴヴァ教授は2012 年、2つの古墳から、木箱に納められた黄金製装身具や二頭立ての馬車を発見し、世界の注目を集めました。このたび、国際文化研究所の招きで来日されるゲルゴヴァ教授に、この大発見について、そして精巧な黄金製品を残したトラキア人について、お話いただきます。

日 時  平成27年(2015)年6月20日(土)  14:00-16:00
講 師  ディアナ・ゲルゴヴァ氏(ブルガリア科学アカデミー上級研究員)
会 場  岡山市立オリエント美術館地下講堂
参加費  聴講料 500円(友の会会員は300円)
定 員  80名 要申込
主 催  岡山市立オリエント美術館・岡山オリエント協会

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黄金文明トラキア・・・現在のブルガリアの基本情報から解説していただきました。
本編ではディアナ・ゲルゴヴァ教授からブルガリア語で(通訳あり)発掘等々について。
トラキアの「古墳」の多さに驚いたりしました\(◎o◎)/!・・・世界史も奥が深すぎる(;^ω^)
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トラキアラテン語:Thracia、トルコ語:Trakya)は、バルカン半島南東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。
古代ギリシア時代のトラキア(古代ギリシア語で「トラケー」Θράκη Thrākē、ラテン語で「トラキア」Thracia)には、インド・ヨーロッパ語族に属する言語を話すトラキア人と呼ばれる民族が住んでおり、独自の文化が栄えた。彼らは様々な小部族に分かれていたが、南のギリシアから様々な影響を受けて国家を形成することもあった。近年、特にブルガリア領内でトラキア時代の遺跡発掘が進み、黄金文明と呼べるほど大量かつ精巧な金細工が発見されている。
紀元前6世紀頃からトラキア地方にはギリシア人の植民都市が建設されたが、ペルシアアケメネス朝が領域を広げると大部分はその支配下に入った、紀元前4世紀に西のマケドニア王国によって征服された。その後、一時独立を回復するも、南部は共和政ローマに支配され、ほぼ現在のブルガリアに含まれる北部もローマ帝国東ローマ帝国の支配を受けた(トラキア属州)。キリスト教が広まるとともに、スラヴ人が侵入して言語的にはブルガリア語ギリシャ語が主流になっていった。また、4世紀からトラキアの東端部にあるビュザンティオンがローマ帝国の新首都コンスタンティノポリスとなったことからトラキア地方は首都近郊の重要な地域となった。(Wikipedia)
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