YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2015年07月

【注目記事】旧日本軍の特攻隊の保存食?70年ぶりに缶詰開けてみたら…

旧日本軍の特攻隊の保存食?70年ぶりに缶詰開けてみたら…
2015年7月30日20時45分  スポーツ報知

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香川県土庄町(小豆島)のしょうゆ屋の倉庫跡で、70年以上前に製造され旧日本軍の特攻隊の保存食だったとみられる赤飯の缶詰が見つかり、倉庫跡で30日に開封するイベントが開かれた。あずき入りの艶のある赤飯が現れたが、発酵したようなにおいがし、試食はお預けとなった。
 発見された17缶のうち1缶を湯煎し、缶詰評論家の黒川勇人さん(48)が缶切りを使って開封。鮮やかな桃色の赤飯に、黒川さんは「きれいですね、これはすごい」と興奮した様子で話した。
 ただ「パイナップルの缶詰のような甘酸っぱいにおい。あずきが変質したのかもしれない」として口にはしなかった。専門家の検査を踏まえ、問題がなければ試食する。
 缶詰に貼られた紙のラベルには「製造者 広島県広島市合同缶詰株式会社尾道工場」とあり、「内容量 415瓦(グラム)」「納入年月 昭和19年」「横須賀海軍軍需部納」とも記載されている。
 倉庫跡でアートギャラリー「MeiPAM02」を展開する男性スタッフ2人が2011年冬、改修作業中に木箱に入った缶詰を発見した。戦時中には近くにボートを利用した特攻隊の兵舎があり、隊員の保存食だったのではないかとみられる。
 缶詰は8月1~31日にMeiPAM02で公開される。

作楽神社~児島高徳:十字の詩~【美作探索紀行2】

日植海軍記念館から津山市街地へ移動して扇状車庫を鑑賞しつつ、
市街地西方の院庄へ・・・作楽神社へ向かいます

先日の記事↓をご覧になったmiyake先生の配慮により行程に加えていただきましたm(__)m

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作楽神社(さくらじんじゃ)は、岡山県津山市神戸にある神社である。鎌倉時代から室町時代にかけて美作国守護の館(「院庄館」)があった地に、後醍醐天皇とその忠臣児島高徳を祭神として、明治2年(1869年)、津山藩松平慶倫により創建された。
境内には約100本のソメイヨシノが植えられている。また、神社の敷地全体が、国指定の史跡「院庄館跡(児島高徳伝説地)」となっている。 (Wikipedia)

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作楽神社拝殿

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児島高徳像
1331年元弘元年)に鎌倉幕府の打倒に失敗し囚われの身となった後醍醐天皇は光厳天皇への譲位を強制された後、翌年3月になって京から隠岐配流されたが(元弘の乱)、その途上、美作国院庄の守護館に宿泊した。一方、備前国土豪児島高徳は手勢を率いて、護送の途中で先帝(後醍醐天皇)を解放しようと企てたが、好機を見いだせないまま院庄まで追跡してきていた。厳重な警護をかいくぐり守護館の庭に単身潜入した児島高徳は、桜の木の幹を削って白くなった所に、次のような十字詩を刻んだ(「白桜十字詩」と呼ばれる)。
天莫空勾践
時非無范蠡
【書き下し文】天、勾践を空(むな)しうすること莫(なか)れ。時に范蠡無きにしも非ず。
【大意】天は、呉との戦いに敗北し捕らわれた越王・勾践を見捨てなかったように、先帝を見捨てることもありません。勾践に范蠡という忠臣がいたように、先帝を助け出す忠臣が必ず現れましょう。  (Wikipedia)
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十字の詩跡 東大門跡 院庄碑


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江戸時代になって津山藩家老、長尾勝明は児島高徳の忠義心を讃え、1688年貞享5年)、その桜の樹があったと伝わる場所に、高徳顕彰碑を建てた。(Wikipedia)

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児島高徳伝説の地で、後醍醐天皇と十字詩の出会い・・・その崇高な物語に想いを馳せたのでした


そして・・・院庄から北上!
鳥取県との県境付近・蒜山高原へ!!
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いよいよ極秘作戦が実行されます
次回へつづく

日植海軍記念館~12.7㎝連装高角砲鑑賞~【美作探索紀行1】

先日25日・・・以前から計画があり、諸事情等々で探訪が延期になっていた岡山県北の美作地方の重要地へ・・・ついに
戦史研究家miyake先生主催による特別編成探索隊4名(miyake先生・M氏・ktgwkuj隊長・Yamatetsu)は備中総社で集合して北上・・・美作津山へ向かったのであります
目的地は津山市の企業「日本植生」内にある『日植記念館(海軍記念館)』!
到着後、担当の方には約1時間にわたり案内していただきました。とても充実した展示内容とともに日本植生の「姿勢」にも感動しました。大変お世話になり、ありがとうございましたm(__)m
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日植記念館  岡山県津山市高尾590-1

記念館内は撮影不可・・・注目に値する貴重な物件の数々でした。ということで、屋外展示品の一部を紹介します。

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記念館の窓より・・・やはり高角砲の存在感が凄いですね!

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マツダ製自動三輪車・・・詳細不明・・・御教示くださいm(__)m

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佐世保海軍無線塔
         「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電報を発信した記念すべき無線塔

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戦艦陸奥の主砲(45口径40センチ砲)先端部

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K隊長調査から引用・・・「耐腐食性の燃料薬液容器(秋水関連?)」
秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」は Me163 に搭載されていたヴァルター機関HKW-109/509A型」のコピーとなるはずであったが、機体と同じようにエンジンの資料も簡単なものだった。そのため手持ちの資料を参考に自主開発するよりなかった。燃料は燃料概念図を参考にし、濃度 80 % の過酸化水素を酸化剤に、[メタノール 57 % / 水加ヒドラジン 37 % / 13 %] の混合液を化学反応させるというシステムである。日本は前者を甲液、後者を乙液と呼んだ(ドイツはT液とC液)。また安定剤兼反応促進剤として甲液にはオキシキノリンピロリン酸ソーダを、乙液にシアン化カリウムが加えられた。
これらの燃料は人体を溶解してしまう劇薬で、特に甲液の高濃度過酸化水素は無色透明のうえ異物混入時の爆発の危険性と有機物に対する強い腐食性があり、秋水の整備は長袖、長ズボンで行わなければならなかった。(Wikipedia)

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説明では「40センチ砲弾のレプリカ」

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【戦艦陸奥】四十口径八九式十二糎七高角砲(40こうけいはちきゅうしき12せんち7こうかくほう)は、日本海軍の開発した高角砲。通称12.7センチ高角砲
1929年(昭和4年)より設計が開始され1931年(昭和6年)に第1号機が完成し、翌年2月に四十口径八九式十二糎七連装高角砲架とともに制式採用された。
この砲の時限信管は装填時に自動的に調停されるがこの調停器の開発は難航した。当初は誤差が許容範囲内(±0.2秒)に収まらず、たびたび改設計がされている。1935年(昭和10年)にようやく安定した精度が出るようになったという。
発射速度が大きく操縦性良好で命中精度も高かったため使用実績は良好であり、対空戦闘のみならず対水上艦戦闘においても高い評価を得ていたというのが通説である。「なぜこの砲を両用砲としてもっと積極的に使わなかったのか」という声は、当時の関係者からも聞かれている。(Wikipedia)

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もっと鑑賞したかったのですが・・・制限時間となりました・・・日植記念館をあとにして、次の目的地へ

暑中お見舞い申し上げます~ブログをご覧の皆様へ~

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7月~8月の主な予定
(また気が向いたら…後日、報告しますね)

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7月25日決行【済】

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8月24日攻略

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播州白旗城2/2~赤松氏の本城~【播備国境から上郡7】

ゲートを開けて、登山道を進むと五輪塔群の説明板があります。
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新田義貞との戦いにより戦死した人々の供養塔でしょうか

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比較的歩きやすい道だと思いながら、

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渓流を眺めながら進むと・・・

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後半は岩場が続き、苔が生えた石の道が・・・

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苔の生えた石で滑り、転倒しながら、
なんとか・・・なんとか尾根付近へたどり着く

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連郭の端にある堀切
他の郭は体力の関係で割愛して、本丸へ直行!

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馬場丸から本丸へ

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白旗城:本丸

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樹間から見える麓の集落
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赤松の里

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珍しい形状の石碑
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白旗城址之碑

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しばらく本丸で白旗城の歴史を偲び

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帰路も転倒しながら・・・下山したのでした


【播備国境から上郡】終了 ありがとうございましたm(__)m

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