YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2016年01月

「歴史講演会:大正期の芦田川洪水と福山義倉の救済」と新年会

先日の土曜日のこと、
備陽史探訪の会による歴史講演会につづいて、総会と新年会に参加することができました。

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【歴史講演会】大正期の芦田川洪水と福山義倉の救済
福山の芦田川は、地域に豊かな土壌を与えてくれた反面、しばしば大規模な洪水をもたらす存在でもありました。特に大正8年の大洪水は、その被害の規模と範囲において、最大のものでした。災害の現場では、どのような被害が起き、誰がそれを救助していたのか? そして、人々の「日常」生活はどのように取り戻されていったのか?(あるいは取り戻せなかったのか?) このような問題を考えることは、地域に独自の歴史像を災害史の観点から描き出すことにつながると思います。
そこでこの度、大正8年の芦田川洪水とそれに対する福山義倉の救済を取り上げて、できうる限り上記の問題に迫ってみます。福山義倉は、地域の名望家が集まって成立した救済団体ですが、その所蔵文書である「義倉文書」には、救済の方法をめぐる地域社会と義倉のやり取りが細かく記録されています。つまり、洪水に際して地域社会の側にあった資金需要をそれ自体として明瞭に捉えることができます。その意味で、この講演会の趣旨に合致した検討素材と言えましょう。http://bingo-history.net/archives/10830


義倉(ぎそう)とは、災害飢饉に備えてなどの穀物を一般より徴収し、または富者から寄付を得て、これを貯蓄するために国内の要地に設けた倉庫。万一に備える一方で穀物の腐敗の防止と義倉の維持のために古い穀物を安価で売却(出糶)し、また一般に低利で貸し付ける(借放)事も行われていた。
日本では隋の制度を基にして大化の改新の際に導入され、大宝律令賦役令にて定められ親王を除く全人民がその貧富に応じて納めた。律令制の衰退に伴い義倉も衰退したが、江戸時代に入ると儒教の影響で諸藩の中に義倉を作る所が現れた。だが、明治政府成立後にその多くが政府に接収されて不足する国家財政の穴埋めに使われたといわれている。(Wikipedia)

琵琶湖疎水~インクラインと水路閣~【京阪紀行7】

山科の御陵から地下鉄東西線で蹴上駅へ♪
琵琶湖疎水の遺産をインクラインから水路閣へたどります。

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蹴上インクライン(けあげインクライン)は、京都市左京区にあった琵琶湖疏水による舟運ルートの一区間をなす傾斜鉄道(インクライン)。
1891年明治24年)から1948年昭和23年)まで実用に供された。
琵琶湖疏水は京都大津間の輸送を用途の一つとしていたが、落差の大きい場所は船が運行できないので、台車に船を載せて上下させるインクラインで運行していた。
蹴上インクラインは蹴上船溜りと現在の琵琶湖疏水記念館前の南禅寺船溜りを結ぶ延長640メートル、敷地幅22メートル、勾配15分の1の路線で、運転用の巻き上げ機蹴上発電所電力で運転した。通過時間は10分から15分だった。(Wikipedia)

インクラインのレールにある犬釘をブラタモリ流に探索しました(*^▽^*)

犬釘(いぬくぎ、railroad spike レイルロード・スパイク、あるいはrail spike、あるいは単にspike)とは、鉄道レール枕木に固定する締結装置の一種で、鉄道の黎明期から長きに渡って使われている、専用の「」である。
呼称の由来は、初期に日本に入ってきたヨーロッパ型(イギリス型)のレール固定用の、釘頭部のレールまたはプレートを押さえる部分がを、釘を引き抜くための両側の突起が同じく垂れたを連想させることからそう呼ばれるようになった。
イギリス型のそれをあえて英語で指す時は「dog」と呼ばれる。それに対して、アメリカのくぎの釘頭部はまるっぽくのような形をしているので「turtle」と呼ばれている。近年の日本の鉄道では、丸っぽい、亀のような形をした釘のほうがむしろ一般的である。(Wikipedia)

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いぬ釘・・・dog

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かめ釘・・・turtle

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台車と船を観て、南禅寺へ歩く・・・水路閣へ向かいます。

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南禅寺境内にある水道橋【水路閣】

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水路閣の上には現在も疎水が流れます。



ということで・・・行程終了となり、イノダコーヒへ移動して深煎り珈琲を買って帰ったのでした。
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【京阪紀行】 終了

天智天皇陵~暗殺説の現場?~【京阪紀行6】

京都地下鉄東西線で山科区の「御陵駅」へ♪

により、少なからず影響を受けたので天智天皇が『行方不明』になった現場へ向かう。

すなわち、「天智天皇陵」です。
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御陵駅から歩いて数分・・・広大な領域の宮内庁管理地

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天智天皇(てんちてんのう / てんじてんのう、推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日672年1月7日))は第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代淡海三船が「最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。(Wikipedia)

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(みささぎ)は、京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方八角)。考古学名は御廟野古墳。(Wikipedia)

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『山科の里に御幸して還御なし』【扶桑略記】・・・真相は歴史の闇の中です。

インパルス~河原町の純喫茶~【京阪紀行5】

泉涌寺から河原町へ・・・・例の本純喫茶へ、1000軒 をもとにコーヒーを喫する♪

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インパルス
京都府京都市中京区河原町通蛸薬師上ル奈良屋町292

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キリマンジャロ

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チーズケーキ

泉涌寺と月輪陵~四条天皇と後鳥羽上皇の怨霊?~【京阪紀行4】

東福寺から路地を抜けて泉涌寺へ歩く♪
泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来阿弥陀如来弥勒如来の三世仏。
平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。(Wikipedia)

仏殿(重文)-寛文8年(1668年)、徳川家綱の援助で再建したもの。密教寺院の中心堂宇は「本堂」「金堂」と称することが多いが、当寺では宋風の「仏殿」の呼称を用いる。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様になる。本尊は過去・現在・来世を表す釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置する。天井の竜の図と本尊背後の白衣(びゃくえ)観音図は狩野探幽の筆になる。(Wikipedia)

霊明殿-天智天皇光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する。1884年の再建。(Wikipedia)

ここに天智天皇以降の位牌を安置・・・しかし天武天皇系の位牌は無いそうです。そのあたりに重大なミステリーがありそうですね。

月輪陵・・・歴代天皇の陵墓群

その中の筆頭にある四条天皇は2歳で即位し、その後12歳でに不慮の事故により崩御します。
というのが、近習を転ばせるために廊下に滑石を撒いたところ、誤って自ら転倒して脳挫傷?になったことが死因となったようです。
巷では、後鳥羽上皇による怨霊によるものだという噂・・・このようなところにも出現する後鳥羽上皇と怨霊信仰に驚くとともに感慨深い想いになったのでした。





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