先日の土曜日のこと、
備陽史探訪の会による歴史講演会につづいて、総会と新年会に参加することができました。

【歴史講演会】大正期の芦田川洪水と福山義倉の救済
福山の芦田川は、地域に豊かな土壌を与えてくれた反面、しばしば大規模な洪水をもたらす存在でもありました。特に大正8年の大洪水は、その被害の規模と範囲において、最大のものでした。災害の現場では、どのような被害が起き、誰がそれを救助していたのか? そして、人々の「日常」生活はどのように取り戻されていったのか?(あるいは取り戻せなかったのか?) このような問題を考えることは、地域に独自の歴史像を災害史の観点から描き出すことにつながると思います。
そこでこの度、大正8年の芦田川洪水とそれに対する福山義倉の救済を取り上げて、できうる限り上記の問題に迫ってみます。福山義倉は、地域の名望家が集まって成立した救済団体ですが、その所蔵文書である「義倉文書」には、救済の方法をめぐる地域社会と義倉のやり取りが細かく記録されています。つまり、洪水に際して地域社会の側にあった資金需要をそれ自体として明瞭に捉えることができます。その意味で、この講演会の趣旨に合致した検討素材と言えましょう。http://bingo-history.net/archives/10830
義倉(ぎそう)とは、災害や飢饉に備えて米などの穀物を一般より徴収し、または富者から寄付を得て、これを貯蓄するために国内の要地に設けた倉庫。万一に備える一方で穀物の腐敗の防止と義倉の維持のために古い穀物を安価で売却(出糶)し、また一般に低利で貸し付ける(借放)事も行われていた。
日本では隋の制度を基にして大化の改新の際に導入され、大宝律令賦役令にて定められ親王を除く全人民がその貧富に応じて納めた。律令制の衰退に伴い義倉も衰退したが、江戸時代に入ると儒教の影響で諸藩の中に義倉を作る所が現れた。だが、明治政府成立後にその多くが政府に接収されて不足する国家財政の穴埋めに使われたといわれている。(Wikipedia)