YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2016年02月

平城宮跡の風景~資料館と大極殿~【大和逍遥記8】

近鉄の「大和西大寺」から東へ歩く。かつての平城京の中心地・・・雨の大極殿周辺を散策した。
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平城宮跡資料館~発掘速報展2015~

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平城宮跡に復元された第一次大極殿
藤原京から平城京への遷都文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており[1]、寺院や邸宅は、山城国長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。740年(天平12年)、恭仁京難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。(Wikipedia)

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大極殿から南方を眺める・・・広大な平城宮跡広場から南都の繁栄を想像しつつ、奈良~大和の国~をあとにしたのであった。


【大和逍遥記】 終了
ありがとうございましたm(__)m

唐招提寺~天平の甍~【大和逍遥記7】

薬師寺から北へ歩き唐招提寺へ。鑑真和上の事績を振り返りつつ、天平の風景を眺めた。
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唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。
唐招提寺は1998年古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。(Wikipedia)

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金堂(国宝)
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昔時を偲ぶ天平の甍

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金堂内部の諸仏 向かって右より薬師如来立像、盧舎那仏坐像、千手観音立像 手前に立つのは向かって右が梵天立像、左が帝釈天立像【各像とも国宝】(Wikipedia)

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金堂の放水演習

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礼堂(重文)・鼓楼(国宝)・講堂(国宝)

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経蔵(国宝)・宝蔵(国宝)

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東室の塀

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歴史を醸し出す質感であった。

薬師寺~国宝の薬師三尊像~【大和逍遥記6】

奈良市街地の西郊・・・以前から心残りとなっていた西ノ京周辺を散策した。
近鉄の「西ノ京」から徒歩数分で薬師寺付属の八幡宮へ。
そして、金堂内の薬師三尊の前で奈良時代初頭における元正天皇の事績を振り返る。美貌の女帝~元正天皇~

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神仏習合の休ケ岡八幡宮本殿【豊臣秀頼寄進・重文】

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薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇道昭義淵である。1998年平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。(Wikipedia)

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薬師寺式伽藍配置

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東塔(復元)

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西塔は残念ながら修復中。

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金堂と堂内の薬師三尊像
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薬師三尊像
金堂に安置する、薬師寺の本尊。国宝。飛鳥時代後期(白鳳期) - 奈良時代(7 - 8世紀)の作。国宝指定名称は「銅造薬師如来及両脇侍像 3躯」。中尊は薬師如来、左脇侍(向かって右)に日光菩薩(にっこうぼさつ)、右脇侍に月光菩薩(がっこうぼさつ)を配している。像高は薬師如来254.7センチメートル、日光菩薩317.3センチメートル、月光菩薩315.3センチメートル。日本の仏像彫刻が、中国・六朝や唐の影響を受けつつ、独自の古典様式を完成した7 - 8世紀の作品のなかでも最高傑作の1つとして古来名高いものである。
中尊は「東塔檫銘」に「巍巍蕩蕩(ぎぎとうとう)たり薬師如来、大いに誓願を発し、広く慈哀を運(めぐら)す」とある薬師如来である。「巍巍」とは高い峰のように大きく堂々としている様子、「蕩蕩」は大河のように広くゆったりとした様子で、この表現のとおり、中尊像は男性的な堂々たる像容を表す。両脇侍像は首と腰を軽くひねり、頭部、上半身、下半身がそれぞれ異なった角度を表す「三曲法」と呼ばれるポーズを示す。これはインド・グプタ朝の彫刻様式の影響が、唐時代の中国を経て日本へ伝わったものである。
各像の面貌や体躯は、飛鳥時代前期彫刻のような観念的表現を離れ、人体の正確な把握に基づいた自然な肉付けがみられる。一方、衣文は深く明瞭に表され、鋭角に切り立った面を構成している。総じて中国・初唐様式の影響がみられる。
中尊の掌には輪宝を線刻し、足裏には輪宝のほか、指に卍花を刻むなど、吉祥文が表されている。これらは仏の三十二相に基づく表現である。中尊像の台座は宣字座の上に裳を広げた裳懸座である。この宣字座にはギリシャペルシャインド中国などに淵源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文、異国風の人物像、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などの意匠があしらわれており、奈良がシルクロードの終着地点と言われる所以となっている。[15]
制作年代については、「歴史」の項で述べたように持統天皇2年(688年)無遮大会実施までには完成していたとする説、『日本書紀』に持統天皇11年(697年)、薬師寺にて公卿百寮が仏像を造り開眼法会を行った旨の記録があることから、この時に制作されたとする説、平城京移転後の新造とする説があり、決着をみていない。685年頃の制作である旧山田寺仏頭(現・興福寺蔵)と比較すると、薬師寺像は鋳造技法の点で進歩がみられる。すなわち、山田寺像では鋳造の際に中型と外型のずれを防止するための「型持」と「笄」(釘)がずれてしまっているが、薬師寺像では「型持」と「笄」を一体化してずれを防止しており、銅厚も一定である。こうした鋳造技法の進歩を制作年代の下降と見る説がある一方で、天皇発願の寺である薬師寺と、私寺である山田寺を同一視はできず、技法の違いは即年代の違いではないとする説もある。(Wikipedia)

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東院堂(国宝)

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大講堂(復元)

ピノキオ(PINOCCHIO)~奈良市三条通~【大和逍遥記5】

高取町から奈良市へ帰還・・・三条通を歩く。そして情報を入手した良い雰囲気の店に入り、絶品オムライスと珈琲で登山の疲れを癒した。
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ピノキオ(PINOCCHIO)
奈良市下三条町24

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鳥取藩池田家三十二万石(交流展・記念講演会)

先日、県立博物館の交流展と記念講演2本を拝聴★特に池田恒興の肖像画については印象深い研究でありました!
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池田恒興画像(鳥取県立博物館)
池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名織田氏の家臣。池田恒利の子。子に元助輝政など。
尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道し勝入と号した。を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは娘婿の森長可と共同で犬山城を攻略したが、羽黒の戦いでは徳川家康の家臣である酒井忠次らに敗れ、敗走した[3]。その後、徳川家康の本領・三河国を攻撃しようとした羽柴秀次軍に従軍したが、長久手において討ち死にした[3]。享年は49であった[3]。(Wikipedia)

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