YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2016年02月

ブリキトース砲と天誅組~高取城の戦い:文久三年~【大和逍遥記4】

高取城跡から山を下り、高取の街へ。かつての高取藩、植村氏2万五千石の城下町である。
その昔、司馬遼太郎の短編小説「おお大砲」や「街道をゆく」を読み、この地の事柄が印象深く刻まれていた。
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街道をゆく(大和壺阪みち)より
寛永17年(1640年)10月19日、大番頭であった9,000石の大身旗本である植村家政が、2万5,000石に加増されて大名となり、再び高取藩が立藩された。
なお、植村氏は酒井氏本多氏らと共に戦国時代から松平氏に仕えた古参で、家康の下で抜群の戦功を挙げたことから、歴代藩主に家康の「家」を名乗ることを許されていた名門譜代であった。また、高取城江戸時代を通じても珍しい山城であったため、交通に不便で寛永末期から藩主・家臣団の移転が始まり、城には城番が置かれるだけであった。(Wikipedia)

城下町を歩いていると、偶然・・・
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旧商工会館支所の入口に大砲を発見した。

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司馬遼太郎の「おお大砲」をもとに製作した大砲らしい。

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模擬大砲とはいえ、大阪の陣から伝わるという設定のブリキトース砲・・・感慨深い。

そして、壺阪口駅から近鉄線路を横断して町役場へ歩く。幕末の文久三年(1863)・・・高取藩と天誅組の攻防戦における陣地である。
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天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)は、幕末文久3年(1863年8月17日吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である。大和義挙大和の乱などとも呼ばれる。(Wikipedia)

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鳥ケ峰古戦場跡(高取町役場付近)

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小競り合い程度で天誅組は退いたらしいが、この地方の人々にとっては大事件であったであろう。


高取城跡~日本三大山城~【大和逍遥記3】

壷阪寺から五百羅漢を経て、高取城跡へたどり着く。山上に残存する累々たる石垣の保存状態は抜群であった。
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高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城である。別名、高取山城。江戸時代高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。(Wikipedia)

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日本城郭体系より(高取城縄張り主要部)
城は、高取町から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた。なお、土佐とは高取の旧名である。
曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。(Wikipedia)

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【古写真】大手門付近より(明治20年頃)

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大手門

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十三間多門櫓付近

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太鼓御櫓台と新御櫓台

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本丸下の城跡碑

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天守台

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本丸虎口

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暫く本丸跡に立ち往時を偲んだ。

そして、
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帰路にある猿石が印象的であった。かつて明日香で見た猿石と同類らしい。
長途の下り道・・・城下町へ歩を進める。

壷阪寺と五百羅漢~高市郡高取町~【大和逍遥記2】

奈良市から近鉄で奈良盆地を南下・・・橿原神宮前から吉野行に乗り換え壺阪山で下車する。
大和平野が終わり紀伊山地の大山塊が始まる高取町。
この地のある古刹「壺阪寺」と日本三大山城のひとつ「高取城」を訪ねることにした。
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壺阪山駅前から奈良交通バスで急坂を登り「壺阪寺」へ向かう。

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南法華寺(みなみほっけじ)は、奈良県高市郡高取町にある真言宗系の単立寺院。山号は壺阪山。一般には壺阪寺(つぼさかでら)の通称で知られる。703年(大宝3年)創建と伝え、西国三十三所第六番札所。
草創については不明な点が多いが、伝承によれば大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人により開かれたとされる。京都の清水寺の北法華寺に対し南法華寺といい、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた。(Wikipedia)

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三重塔(重要文化財)室町時代の1497年建立

つづいて、山中を進み五百羅漢等の石造物を鑑賞しつつ高取城跡へ。

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城跡までの道程はつづく


「真田丸」関連企画展『蕭白・松園…日本美術の輝き』~奈良県立美術館~【大和逍遥記1】

先日、ひさしぶりに奈良県・・・冬の大和国に足を踏み入れた。
まずは県立美術館へ。
企画展で「淀殿画像」を鑑賞し、その眼光の奥に波乱の生涯を見たのである。
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【伝】淀殿画像(奈良県立美術館蔵)
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殿(よどどの、永禄12年(1569年)?- 慶長20年5月8日1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初頭の人物。豊臣秀吉側室[3]位階従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。(Wikipedia)

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次回へつづく

「北条早雲と法泉寺の文化財」と古文書講座~岡山県井原市~

本日、岡山県西部の井原市において
「北条早雲」に関する展示鑑賞とともに、ゆかりの古文書講座に参加しました。
近年、関東を制覇した後北条氏の祖である『伊勢新九郎・・・後の早雲』は備中出身であるということが定説になっているようです。
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中世文書に触れて、大変参考になりました。
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古文書講座終了後・・・北条早雲の墓所がある井原市内の法泉寺へ行ってみることに。
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法泉寺・・・その構えは城郭仕様

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北条氏の「三つ鱗」・・・後年に寺紋を替えたという。

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【伝】伊勢盛時(北条早雲)と伊勢盛定(早雲の父)の墓

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北条早雲画像【井原市重文】
北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。
一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた[6]。しかし、近年の研究では室町幕府政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である[7]1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる[8])であることがほぼ確定した[9]
幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった[10]。従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した[10]。(Wikipedia)

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