YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2016年03月

特別陳列「戦国武将の新出資料~浦上宗景と宇喜多直家・秀家~」

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今から約400年前、戦国時代の岡山では、備前の浦上氏や宇喜多氏、備中の三村氏ら、多くの戦国武将が覇権を争っていました。これまでは、『備前軍記』等の江戸時代の資料を元に語られることが多かったのですが、近年、文書資料の発見や県内各地で行われた山城調査等により、新たな事実が判明してきています。
 今回の展示では、近年発見された浦上宗景、宇喜多直家・秀家らの新出資料をあつめ、戦国時代を生きた武将たちについて紹介します。

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昨日、展示解説日に合わせて県立博物館へ♪
以前から関心のある浦上宗景(天神山城址と浦上宗景【天神山探訪記2/3】の行方の一端に触れるべく資料鑑賞をしてきたのであります。

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天正6年(1578)9月28日:河内国平島から備前の馬場源丞宛・・・天神山城から敗走後、播磨から河内まで転戦?していたようです。浦上宗景最後の痕跡か??

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(バットマン ブイエス スーパーマン ジャスティスのたんじょう、原題:Batman v Superman: Dawn of Justice)は、2016年に公開されたアメリカ製作スーパーヒーロー映画
DCコミックス」のアメリカン・コミックスーパーマン』と『バットマン』の実写映画作品。また、様々な「DCコミックス」の実写化映画作品を、同一の世界観のクロスオーバー作品群として扱う『DCエクステンディッド・ユニバース』シリーズとしては第2番作品目の作品となる。
2016年3月25日、北米で世界最速公開[2]。日本でも同じく2016年3月25日に公開された。(Wikipedia)


女が見ていた

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女が見ていた』(おんながみていた)は、横溝正史の長編推理小説である。
5月にしては寒いある夜、妻の加奈子を殴って家を飛び出した小説家の風間啓介は、銀座をさまよい歩きながらラクダ色オーヴァを着た女、黒いつやのある外套を着た女、真紅のターバンを頭に巻いた女たちに次々と尾行されているのを感じる。それらの途中で啓介は、酔った挙句に昔の恋人で評論家の那須慎吉の妻になっている泰子に電話で会って欲しいと懇願するが、あえなく振られてしまう。やけになってはしご酒を続けて酔い潰れた啓介は、気が付くと最初に尾行していたラクダ色のオーヴァを着た女に有楽町のガード下で介抱されていて、そのまま彼女に終電車に乗せられる。
ところが家に帰り着いた啓介は、同居人で雑誌編集者の西沢から、加奈子が「レッド・ミル」という銀座のキャバレーで殺されたことを知らされる。しかも、現場には自分のシガレット・ケースと、西沢が啓介に渡した店の地図が落ちていたという。自分に疑いがかかるように那須にワナにかけられたと思い込んだ啓介は、西沢にウィスキーに混ぜた睡眠薬を飲ませて眠らして逃げ出してしまう。そして、海軍時代からの知り合いで、自分に恩義を感じてくれているヤミブローカーの田代皓三に、自分のアリバイを証明してくれるはずの三人の女を捜すように依頼する・・・(Wikipedia)





失われたミカドの秘紋

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
「天皇の真実を公表する」そう息巻いていた友人が死んだ。歴史作家・望月真司はその死に疑問を抱き、彼が知った事実を調べるため、支那大陸へ。そこで目にしたのは、キリスト教が中国で流行したことを示す石碑、そして古くからあるイスラム教の寺院。これらが望月の頭の中で結び付けられたとき、ヤマト民族の起源が浮上する!真の古代史を追求する、驚愕の歴史ロマン。

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読了したものの・・・ユダヤ~聖書~始皇帝~秦氏~任那・・・謎は広がり、そして深まるばかりでした(;^ω^)


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好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われ、付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)とも言われる。
4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。
この碑は好太王の業績を称えるために子の長寿王[1][2][3]建てたもので、碑文には「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたとある。
のち1880年明治13年・光緒6年)頃にの集安(現中華人民共和国吉林省通化地級市集安市)の農民により発見され、翌年関月山より拓本が作成された。1961年(昭和36年)、洞溝古墓群の一部として、全国重点文物保護単位に指定される。
好太王碑は現在の吉林省集安市の好太王陵の近くに位置している。高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑で、その四面に計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文での記述となっている[4]。碑文は風化によって判読不能な箇所もある。なお、2010年(平成22年)現在、この碑文は風化・劣化を防ぐためにガラスケースで保護されている。(Wikipedia)

特別講演会 おひつじ座と春分とノウルーズ−イランの暦の歴史

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春分を正月とするイラン暦は、ゾロアスター教の祭儀とも密接な関係があります。古代メソポタミア/イランの星座と暦に詳しい春田先生に、イランの暦の歴史について、詳しく解説いただきます。
日 時  平成28年(2016)年3月19日(土)  13:30-16:00
講 師  春田 晴郎(東海大学文学部アジア文明学科教授)
会 場  岡山市立オリエント美術館地下講堂
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藍釉黄道十二宮図 把手付壺 イラン12-13世紀

イラン暦(イランれき、ペルシア語: سالنمای هجری شمسی؛ گاهشماری هجری خورشیدی‎)は、イランを中心に中東の広い地域で使われている暦法の総称で、太陽暦ペルシア暦ペルシャ暦イラン太陽暦とも呼ばれる。欧米では“anno Persico/anno Persarum”(英訳「Persian year」)を略してA.P.と表記する。
ペルシア(イラン)ではアケメネス朝時代までバビロニアから伝わった太陰太陽暦を用いていたが、その後、新たにエジプト由来の太陽暦が伝わった。
ペルシア暦は、サーサーン朝が国教としたゾロアスター教の宗教儀礼と密接な関係を持つ。春分の祭りノウルーズ(「新しい日」の意)と秋分の祭りメフラガーン(ミフラジャーンとも。本来は「ミスラ祭」の意)という二大祭礼を持ち、時代と暦法の種別によってそのどちらかが新年の最初の日となる。
イスラム化以降、ペルシアにはヒジュラ暦が導入されるが、ノウルーズの祭礼は純粋太陰暦であるヒジュラ暦によっては行えない農事暦上の春分の祝いとして存続した。
11世紀頃からは、ノウルーズを新年とし、ヒジュラを紀元とする太陽暦が再び作られるようになり、セルジューク朝期のウマル・ハイヤームらの天文学者によって改良が施されてきた。(Wikipedia)


昨日はイランの歴史と暦に関する講演会へ♪
今年の3月20日は、イランや中央アジア等では新年の1日になるとのこと。
イラン暦なるものがあるとのことを初めて知りつつ、あらためて中東史の複雑さを再認識したのでした★

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