YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2016年05月

小松姫(大蓮院殿)墓所~沼田市・正覚寺~【関東彷徨記9】

沼田城跡から南へ徒歩数分の正覚寺へ。
ここには本多忠勝の娘。そして、真田信之の正室として近年注目されている「稲姫(小松姫)」の墓があります。
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正覚寺山門

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逸話では甲冑をまとい沼田城を守ったとされていますね。

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小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日1620年3月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。上田藩および松代藩の初代藩主・真田信之(信幸)の正室。徳川氏譜代家臣の本多忠勝の娘[1][2]。幼名は於子亥(おねい)[2][3]小松殿(こまつどの)、稲姫(いなひめ)とも称される[3][4][注 1]徳川家康または徳川秀忠の養女として真田信之に嫁ぎ[4]信政信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)らを生んだ[6]
小松姫と真田信之との婚姻については、天正10年(1582年)10月末の徳川・北条同盟の成立による天正壬午の乱終結後の沼田領(吾妻・利根郡)の引き渡し問題や[11][12]、天正13年(1585年)閏8月の第一次上田合戦[13]、天正14年(1586年)7月の真田征伐[14]などで対立抗争を続けていた徳川家康真田昌幸が、豊臣秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着した[15]ことを契機に、両家の関係を緊密にする狙いがあったと見られている[16][17]。また、この婚姻自体が秀吉の意向によるものとの所伝も残されており、時期的な状況からその可能性も考えられる[17]。婚姻の時期については、本多氏の系図『参考御系伝』や『幕府祚胤伝』では秀吉の仲介により、天正14年(1586年)に成されたと記されているが[4]、『甲陽軍鑑』では天正11年(1583年)、『沼田日記』では天正16年(1588年)と記されるなど、様々な説がある[5][18]
慶長5年(1600年)に石田三成が挙兵した際、舅の真田昌幸は石田方に付き徳川方に付いた信之と袂を分けたが、『改正三河後風土記』には、その後の動向について次のような内容が記されている[57]
昌幸は居城である上田城に向かう途中、旅の疲れを癒すため小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄った。その際、小松姫は昌幸から「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」との申し出を受けるが、これを断ると侍女を遣わして昌幸らを城下の旅宿に案内し丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣には弓や鉄砲を狭間に配置させ相手方の襲撃に備えるように命じて[57]、家臣内の動揺を抑えるとともに城内の結束を図った[2]。これを見た昌幸は家臣に向かって「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ。我は空しく戦死する共あの新婦あるからは、真田が家は盤石なり」と、その手並みを褒め称えたという[57]
元和6年(1620年)春、小松姫は病気を患い草津温泉での湯治のため[44]、江戸から草津へ向かう最中[47]2月24日3月27日)に武蔵国鴻巣で亡くなった[44][48]。48歳没[44]。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼[48]。小松姫の死に際して夫・信之は「わが家の燈火が消えたり」と嘆いたという[47][49]
墓は武蔵国鴻巣(後の埼玉県鴻巣市)にある勝願寺、上野国沼田(後の群馬県沼田市)にある正覚寺、信濃国上田(後の長野県上田市)にある芳泉寺の三か寺に分骨された[2][27][49]。(Wikipedia)

当選\(^o^)/「長渕 剛 THANK YOU ACOUSTIC TOUR 2016 FOR FANCLUB MEMBERS」

当選\(^o^)/

激戦の8.13鹿児島を制しました・・・(ノД`)・゜・。

ヤマ テツ様
以下の内容で当選が決定しました。 
「長渕 剛 THANK YOU ACOUSTIC TOUR 2016 FOR FANCLUB MEMBERS
20160813() 18:30開演
鹿児島・宝山ホール
席種/料金(税込):全席指定/7800
枚数: 1
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夜光虫

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安田作兵衛・・・・・・!?

上野 沼田城跡~北関東要衝の地~【関東彷徨記8】

上州沼田真田丸展 の会場から移動して河岸段丘を利用して築かれた「沼田城」へ向かいます。
この地は、北関東における要衝の地・・・かつて上杉謙信が関東進出した時には沼田城を攻略して足がかりとします。
謙信亡き後の「沼田の地」は、武田氏に属する真田昌幸の謀略により真田氏の領分となり・・・その後、北条氏との攻防戦という次第。

ここを訪ねる前に読んだ池波正太郎の小説まぼろしの城 等々に想いを巡らしながら散策したのでした。
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NHK大河ドラマ「真田丸」の映像より

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沼田公園入口
現在は公園となった沼田城・・・江戸時代初期までは真田信之が築いた「五層の天守閣」がありました。関東で五層の天守があったのは江戸と沼田だけです。

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沼田城(ぬまたじょう)は、上野国利根郡(現:群馬県沼田市)にあった日本の城丘城)。幾つかの守護城に囲まれた堅城である。沼田氏の居城として建築され、戦国時代後期から江戸時代初期にかけて真田氏の沼田領支配の拠点として機能した。沼田藩藩庁。はじめは倉内城と称した。
群馬県沼田市倉内にあり、利根川薄根川の合流点の北東、河岸段丘台地上に位置する丘城。二つの川側は約70mほどの崖となっており、典型的な崖城でもある。
沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として上杉氏後北条氏武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となった。本能寺の変後は真田信幸の支配城として、後北条氏と争った。
江戸時代に城主は真田家5代、天領本多家3代、黒田氏譜代大名)2代を経て、土岐氏12代目に明治維新を迎えている。真田氏時代には5層の天守や3層の櫓が建てられたが、時代とともに縮小し、本多氏時代には三の丸を改修して館を建てる程度の規模になった。
明治維新後、1916年に旧沼田藩士の家の久米民之助によって城地が購入され整備された。1926年には沼田町(沼田市)に寄付され、現在は沼田公園となっている。(Wikipedia)

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江戸時代:正保城絵図より(近年発掘調査された○印の場所)↓
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谷川連峰方面(沼田城:段丘北西より)

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名胡桃城方面(沼田城:段丘北西より)

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この『平八郎石』の物語については、小説まぼろしの城 で情景が味わえます。

そして、真田時代のものとされる西櫓台の石垣
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沼田公園に復元された鐘楼・・・かつての争乱の地は平和な風景となっています。


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5月29日の放送は沼田領問題!

上州沼田真田丸展~もうひとつの真田の舞台~【関東彷徨記7】

沼田駅前の河岸段丘を登り、グリーンベル21にやってきました♪
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NHK大河ドラマの台本や衣装などがあり、なかなか楽しめました★
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これは大河ドラマオープニングで出てくる壁・・・CGじゃなかったんですね!題字の現物もありました。

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そして、オープニングの最後に出てくる六文銭・・・真田ファンとしては久しぶりに大河ドラマでワクワクして毎回鑑賞しております。
放送では終わってしまいましたが、「天正壬午の乱」・・・興奮しました。真田昌幸の策謀と「沼田」をめぐる紆余曲折。今後は小田原征伐に絡む沼田問題が出てきますね。
そして、関ヶ原から九度山。
最後は大阪の陣に至る経緯はどのように描かれるのか・・・ということで、コレも見てください→真田丸攻防戦400年~真田山:三光神社~【初秋大阪散歩2】


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天正壬午の乱 詳細は「天正壬午の乱」を参照
織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長が横死する。甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で騒然たる状態となり、森長可毛利秀頼道家正栄ら信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺害された。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)。
昌幸もこの好機を見逃さず、信濃小県郡佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策した。織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していたが、本能寺の変により彼らは自由の身となった。しかし主家である武田家は既に滅亡しており、彼らは6月12日に小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら将来について話し合った。昌幸はこの会合には参加していないが、会合の一部をこの時に既に調略しており、この会合で調略していた一部が昌幸を総大将に仰ぐ事を表明すると他もそれに続くようになった。そして彼らの代表者が岩櫃城にいた昌幸の下を訪れ、昌幸は快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結んだ。この2日前の6月10日には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めている。6月12日付で吾妻郡の地侍・恩田伊賀に30貫文、6月16日には吾妻郡の豪族・鎌原重春に1000貫文、6月21日には湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者の人心収攬に務めている。
6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、滝川一益を破った(神流川の戦い)。この時、昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けた[27]。昌幸は滝川一益がいなくなり上野も無主になると、6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回した。また、嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めた。
同時期、越後の上杉景勝も北信に進軍し、6月24日に長沼城に入った。これに対し、昌幸はまず上杉景勝に臣従したが、7月9日には北条氏直に降った[28][29]。7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している[30]。一方、上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。沼田城に戻った昌幸は9月25日、佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る[28]。10月19日に禰津昌綱を攻めたのを手始めに、信蕃と連合軍を形成して小諸で軍事行動を行うが、信蕃と組むのは北条氏を裏切った証として家康から求められていたものであった[31]。昌幸離反の情報は、10月初旬に北条氏に伝わったとみられる[31]藤田氏邦は昌幸をけん制するため沼田城を攻めるが、成功しなかった[32]。これが契機となって、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は10月29日に和睦の途を選択する。しかし、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する[33]。これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴ブロックへの参加に他ならない。この時、厩橋城北条高広も真田昌幸や上杉景勝に通じ北条氏と敵対するが、翌年9月頃、厩橋城は落城している。(Wikipedia)

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