沼田城跡から南へ徒歩数分の正覚寺へ。
ここには本多忠勝の娘。そして、真田信之の正室として近年注目されている「稲姫(小松姫)」の墓があります。

正覚寺山門



逸話では甲冑をまとい沼田城を守ったとされていますね。

小松姫と真田信之との婚姻については、天正10年(1582年)10月末の徳川・北条同盟の成立による天正壬午の乱終結後の沼田領(吾妻・利根郡)の引き渡し問題や[11][12]、天正13年(1585年)閏8月の第一次上田合戦[13]、天正14年(1586年)7月の真田征伐[14]などで対立抗争を続けていた徳川家康と真田昌幸が、豊臣秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着した[15]ことを契機に、両家の関係を緊密にする狙いがあったと見られている[16][17]。また、この婚姻自体が秀吉の意向によるものとの所伝も残されており、時期的な状況からその可能性も考えられる[17]。婚姻の時期については、本多氏の系図『参考御系伝』や『幕府祚胤伝』では秀吉の仲介により、天正14年(1586年)に成されたと記されているが[4]、『甲陽軍鑑』では天正11年(1583年)、『沼田日記』では天正16年(1588年)と記されるなど、様々な説がある[5][18]。
昌幸は居城である上田城に向かう途中、旅の疲れを癒すため小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄った。その際、小松姫は昌幸から「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」との申し出を受けるが、これを断ると侍女を遣わして昌幸らを城下の旅宿に案内し丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣には弓や鉄砲を狭間に配置させ相手方の襲撃に備えるように命じて[57]、家臣内の動揺を抑えるとともに城内の結束を図った[2]。これを見た昌幸は家臣に向かって「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ。我は空しく戦死する共あの新婦あるからは、真田が家は盤石なり」と、その手並みを褒め称えたという[57]。