YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2016年07月

マンガ戦車戦史~戦車100周年記念~

イメージ 1
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
漫画家ヒサクニヒコが、第一次~第二次世界大戦で登場した世界各国の戦車とその戦いぶりを、独特のユーモアを交えて描いた戦車ファン必見の“一コマ漫画”作品集。
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 戦車の登場ーWW1~両大戦間期(第一次世界大戦/戦車、日本へ/ノモンハン事件 ほか)/第2章 欧州大戦ーWW2(ポーランド侵攻/西方電撃戦/ロシアへ 独ソ戦の始まり ほか)/第3章 太平洋戦争ーWW2(マレー快進撃/フィリピン攻略戦/太平洋島しょの戦い ほか)
【著者情報】(「BOOK」データベースより)
ヒサクニヒコ
1944年2月、東京に生まれる。漫画集『戦争ーマンガ太平洋戦史』で第18回文藝春秋漫画賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


イメージ 2
2016年は、近代戦争において『戦車』が実戦投入されて100周年となります。
ということで、その昔『恐竜』のイラスト本で感銘を受けたヒサクニヒコ氏の著書が最近発刊されたのを知り購入しました。今日からイラスト鑑賞しつつ読んでいこうかなと。

イメージ 3
ソンムの戦いに展開するマークI戦車「雄型」
マーク I 戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日、ソンムの戦いの中盤での事だった。
世界初の実戦参加であったソンム会戦でマーク I 戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍の野戦砲の直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であった。
しかしこのソンムの戦いでイギリス軍は49両戦車を用意し、稼働できたのは18両、そのうち実際に戦闘に参加できたのは5両だけだった。結局、膠着状態を打破することはできずに連合国(協商国)側の戦線が11kmほど前進するにとどまった。
その後、1917年11月20日のカンブレーの戦いでは世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃で成功を収めた。その後のドイツ軍の反撃で投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。
第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。(Wikipedia)

『特別展:伊達政宗と仙台藩』&「特別講演:伊達の美意識」

昨日は、奥州仙臺からはるばる移動してきた伊達政宗の甲冑や慶長遣欧使節などの文物を鑑賞するために県立美術館へ。
かつて夢中になり、歴史への興味を持つきっかけとなった大河ドラマ「独眼竜政宗」を想いつつ感傷に浸りました。

イメージ 1
伊達政宗は、信長や秀吉、家康らとともに今なお屈指の人気を誇る武将です。仙台藩初代藩主として62万石を治め、将軍家はもとより全国の諸大名からも一目置かれる存在でした。文武に秀でた政宗は、外国事情にも明るく、東北の地に豊かな文化的土壌を築きました。
仙台城三の丸跡に位置する仙台市博物館は、江戸時代を中心とした仙台藩に関する作品や資料、美術工芸品など約9万点を収蔵し、中には国宝でユネスコ世界記憶遺産にも選ばれた慶長遣欧使節関係資料や重要文化財の伊達政宗所用具足・陣羽織など日本の歴史に誇る名宝を有しています。
本展は、遠く離れた岡山と仙台の文化的な相互交流を目的に開催するもので、仙台市博物館から日本の歴史や文化に欠くべからざる名品を選りすぐり、岡山で初めて紹介します。国宝や重要文化財のほか、信長や秀吉の書状や伊達家ゆかりの書画、デザイン性に富むおしゃれな装束など約120点を展覧します。歴史ファンのみならず美術ファン必見です。(会期中展示替えあり)
http://www.pref.okayama.jp/seikatsu/kenbi/

慶長6年(1601年)には仙台城仙台城下町の建設を始め、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。石高62万は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した。
仙台城山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台の城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造した。政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャメキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。(Wikipedia)

イメージ 2
【重文】伊達政宗所用「黒漆五枚胴具足」 政宗といえば、連想するのは・・・この弦月形前立・・・黒漆の中に映えますね★

イメージ 3

イメージ 4
狩野探幽の政宗甲冑像では、弦月形前立が「黒色」になっています。現在、仙台には黒色の弦月形前立部分が残存しているので、このパターンの甲冑もあったのではないかとされているそうです。(講演より)
イメージ 5
「特別講演:伊達の美意識」・・・あらためて、政宗の生涯を振り返り伊達の美意識を再認識したのでした★

可視える

イメージ 1
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
「幽霊画の作者を探して欲しい」画商の依頼を受け、島根県の山奥に佇む龍源神社に赴いた探偵の槇野康平は、その幽霊画のあまりの悍ましさに絶句する。そして一年が過ぎ、警視庁捜査一課の東條有紀は、搜査員の誰もが目を背ける残虐な連続猟奇殺人事件を追っていた。不祥事から警察を追われて探偵となった男と、自身の出生を呪う鉄仮面と渾名される女刑事が難事件を追う!
【著者情報】(「BOOK」データベースより)
吉田恭教(ヨシダヤスノリ)
佐賀県生まれ。一歩釣り漁師のかたわら執筆活動を行う。2011年『変若水(をちみづ)』(光文社)で島田荘司選第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞優秀作に選ばれデビュー(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


先月の、「島田荘司と『ばらのまち福山ミステリー文学新人賞』受賞者たち」&トークイベント の中で話題になっていた吉田氏の作品を読んでみた

アノマロカリスとの再会~『特別展:生命大躍進』~&「特別講演:脊椎動物の進化のドラマ」

本日、岡山で開催中の特別展でアノマロカリスとの再会を果たしました!!
イメージ 1

イメージ 2
生命40億年の歴史・・・壮大・・・。

まず、注目するのは5億年前・・・カンブリア紀です。
イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

そして・・・かつてその造形美に魅了されたアノマロカリスとの再会←特別展 OCEAN!
イメージ 8
イメージ 9

イメージ 10
アノマロカリス(1/1復元模型)

カンブリア紀以降の変遷も複雑にして魅力にあふれます。
イメージ 11

イメージ 12
イメージ 13

それと、ダンクルオステウスにも再会←魅惑の骨格標本~国立科学博物館~【春の関東散歩2】
イメージ 14
イメージ 15
イメージ 16

イメージ 19
参加した講演会は超満員・・・この歴史分野は意外にも人気があるようですね。興味深い内容の数々で理解を深める一方・・・より一層謎も深まったような感覚となりました。入手した特典フィギュアも良い出来で満足です★

イメージ 18
イメージ 17
アノマロカリス学名genus Anomalocaris)は、約5億2,500万- 約5億0,500万年前(古生代カンブリア紀前期終盤[カエルファイアトダバニアン- 中期[ミドルカンブリアン])の海に棲息していた捕食性動物である。アノマロカリス科en)の模式属で、突出して著名な1である。
バージェス動物群(約5億0,500万年前に棲息)の代表的動物として広く一般に知られるようになったが、更に古い時代に属する澄江動物群(約5億2,500万- 約5億2,000万年前に棲息)にもその姿を見出せる。一方で、バージェス頁岩累層より新しい地層からの出土はほとんど無い。
現在知られている限りカンブリア紀最大の動物であり、当時の頂点捕食者生態ピラミッドの最高次消費者)であったと考えられる。
直接と思われる子孫を残さずカンブリア紀中に絶滅した動物であり、所属タクソン(分類群)不明。現生のどの動物群とも類似していない、いわゆる「プロブレマティカ(不詳化石)」の代表例として語られてきたが、節足動物に属するとの説や有爪動物に属するとの説(詳細は後述の分類の進化系統を参照)もある。(Wikipedia)

足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍(中世武士選書)

イメージ 1
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
室町幕府10代将軍。明応の政変で追放されるも、不死鳥のごとく舞い戻る。そして史上唯一、二度も将軍になった隠れた英雄の波瀾万丈な生涯を、新たな視点で解き明かす!
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1部 思いがけなかった将軍の地位(応仁・文明の乱はなぜ起きたのか/義稙はなぜ将軍になりえたのか/義稙はなぜ外征を決断したのか)/第2部 クーデターと苦難の日々(義稙はなぜ将軍位を追われたのか/義稙はいかにして反撃したのか/義稙はなぜ大敗してしまったのか)/第3部 ふたたびの栄光と思わぬ結末(義稙はなぜ将軍位に返り咲けたのか/義稙はいかにして政治を安定させたのか/義稙は賭けに失敗したのか/義稙の人生を振り返って)


イメージ 3
読了しました。一部の人々には「流れ公方」として有名?で、そのためか無能将軍のイメージがある?足利義稙ですが、意外なことに政治能力は想像以上だったようです。応仁の乱後の混乱を極めた時代を渡り歩くことに加え、流浪後には将軍に返り咲いたり刺客を撃退したり。まさに波乱万丈の生涯は、信長や秀吉のそれに比べても遜色ありません。今後は、足利義稙とその周辺を探究していこうと考えております。
【参考:足利義稙の上洛と船岡山の戦いについて→西国の覇者・大内氏

イメージ 2
足利義材→義尹→義稙(NHK「塚原卜伝」より)http://blogs.yahoo.co.jp/yamatetsu1441/1081518.html
足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない。はじめから命名されていない可能性もある)。
将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日1490年7月22日)から明応3年12月27日1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日1508年7月28日)から大永元年12月25日1522年1月22日)まで在職した。
父・義視は応仁の乱において山名宗全の西軍に属し、文明9年(1477年)に子の義材(よしき)を伴い美濃国に亡命した。長享3年(1489年)、早世した9代将軍の従兄足利義尚と彼に続いて死去した伯父義政の後継者として上洛し、義材が第10代将軍に就任した。
その後、東軍を率いた細川勝元の跡を継いだ細川政元と対立、明応2年(1493年)将軍職を廃され幽閉されたが(明応の政変)、脱出して越中国越前国へ逃れ、諸大名の軍事力を動員して京都回復・将軍復職をめざして逃亡生活を送った。逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)と改名している。
更に周防国に逃れ大内義興の支援を得、その軍事力に頼り、永正5年(1508年)に京都を占領、将軍職に復帰した。永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名。しかし、大内義興が周防に帰国後、今度は当時管領であった細川高国(政元の養子)と対立、大永元年(1521年)に細川晴元細川持隆を頼り京都を出奔して将軍職を奪われ、大永3年(1523年)逃亡先の阿波国で死去した。(Wikipedia)

プロフィール

yamatetsu

記事検索
アーカイブ
  • ライブドアブログ