YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2016年11月

雅成親王墓~後鳥羽上皇皇子~【但馬豊岡探訪録3】

但馬国分寺跡地から北上してJR豊岡駅から西へ数㎞・・・「豊岡市高屋」に到着しました。

後鳥羽上皇の事績と伝説を辿るシリーズ関連陵墓編


に続いて、今回は後鳥羽上皇の皇子「雅成親王墓」です。
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雅成親王(まさなりしんのう、正治2年9月11日1200年10月20日) - 建長7年2月10日1255年3月19日))は、鎌倉時代初期の日本皇族後鳥羽天皇の皇子で、母は修明門院、後に宣陽門院養子となる。順徳天皇は同母兄にあたる。妻は久我通光の娘。新三十六歌仙の一人。通称:六条宮又は但馬宮。
建仁4年(1204年)に親王宣下を受け、建暦2年(1212年)に元服して三品親王となる。翌年には結婚をした。将軍源実朝暗殺された直後、鎌倉幕府から親王を次期将軍に迎えたいとする要請が出されるが、鎌倉幕府打倒を決意していた後鳥羽上皇に拒絶される。承久3年(1221年)、承久の乱に加担したとして但馬国流刑となり、同国城崎郡高屋(現在の兵庫県豊岡市)に幽閉された。その後、嘉禄2年(1226年)に出家する。
ところが、父である後鳥羽上皇の死後に幕府から赦免が出されたらしく、寛元2年(1244年)に生母の修明門院と一緒に京都で暮らしていることが記録されている。その後同4年(1246年)に修明門院の最大の支援者であった当時の朝廷の実力者・九条道家が息子である将軍九条頼経と結んで、執権北条時頼とその後押しを受けた後嵯峨天皇を退けて雅成親王を次期天皇に擁立しようとしているとする風説が流される。時頼はその動きに先んじて九条親子を失脚させるとともに雅成親王を但馬高屋に送り返した。親王はそのままその地で病死して葬られた。(Wikipedia)

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雅成親王墓への道

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住宅地の一角にある政争の名残

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墓前で雅成親王の配流先での想いを想像したり・・・。


残る主要関連陵墓(火葬塚)は、日本海の隠岐島と佐渡島。訪問は当分先??になりそうです。

但馬国府と国分寺~豊岡市立歴史博物館~【但馬豊岡探訪録2】

播但連絡道路から北近畿豊岡自動車道を経由して八鹿氷ノ山ICから但馬に入りました。
まずは、豊岡市内の旧日高町にある市立博物館へ。
但馬の国府や国分寺等についての文物を鑑賞しました。
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豊岡市立歴史博物館
兵庫県豊岡市は、兵庫県北部に位置する人口約9万人の町です。山に囲まれたこの町には、天平13年(741)に聖武天皇が建てさせた但馬国分寺や、延暦23年(804)に移転をした但馬国府跡(祢布ヶ森遺跡)など、但馬の中でも多くの歴史遺産が眠る地域として知られてきました。
 当博物館は、平成17年3月、祢布ヶ森遺跡に隣接する場所に但馬国府・国分寺館として開館しました。そして、開館から10年後の平成27年4月、豊岡市の幅広い歴史を活かす施設をめざし、「豊岡市立歴史博物館ー但馬国府・国分寺館ー」として生まれ変わりました。今後も先人の残してくれた貴重な遺産を守り、次代の人たちに受け継いでいくために活動していきます。

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但馬国府はどこに?・・・ということで、鑑賞後は博物館から東へ数百メートルの比定地(祢布ヶ森遺跡)へ向かいます。

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祢布ヶ森遺跡
和名抄』および『拾芥抄』によると、国府は気多郡にあった。
初期の国府の所在地には、豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡とする説、気多郡(現在の豊岡市日高町)内とする説があるが、明らかでない。『日本後紀』によると、延暦23年(804年)に気多郡高田郷に国府が移されたという。豊岡市役所日高総合支所(旧日高町役場)の付近で発掘された祢布ヶ森遺跡(豊岡市日高町祢布)がこれに比定される(位置)。(Wikipedia)

そして、祢布ヶ森遺跡から北東に数百メートルの国分寺跡へ。
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但馬国分寺旧阯碑

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塔跡の礎石を眺めながら、古代の但馬に想いをはせたのでした。おそらく朝鮮半島から渡来した人々が往来していたのではないでしょうか。

但馬の国へ~Driving with my 27式探索車~【但馬豊岡探訪録1】

先日のこと(11月10~11日)・・・平日休暇を利用して
探索車とともに、兵庫県北部の探訪に向かったのでした。
来年度の長距離探索に向けて稼働率を上げるべく試行をかねて・・・ということです。
その時の見聞を少々綴ってみようかと。

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三菱二七式探索専用軽四輪自動車(通称:27式探索車)・・・吉備SAにて
驚異的な燃費性能を誇る最新鋭軽四輪自動車です!

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CUSTOM TNver.

山陽自動車道を西へ走らせ、姫路から進路を北へ
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そして、播但連絡道路を進みます。播但・・・播磨の国から但馬の国へ

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『日本海山潮陸図:元禄4年(1691)』より

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『但馬国』日本史大辞典より
但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
7世紀丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。

近世以降の沿革
旧高旧領取調帳データベース」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。 慶応4年 明治2年
  • 8月10日1869年9月15日) - 朝来郡の久美浜県の管轄地域が生野県の管轄となる。
  • 旗本領が久美浜県の管轄となる。
明治4年 明治9年(1876年8月21日 - 第1次府県統合により兵庫県の管轄となる。
Wikipedia)

次回へつづく(/・ω・)/

カルバリン砲とブリキトース砲~真田丸「砲弾」と高取藩~の検証

以前から気になっている件について・・・。

大和高取藩に伝わったとされる大坂の陣で使用されたという攻城用大砲【通称:ブリキトース】のことです。
以前・・・大和高取の城下町を探訪した時に模擬大砲を拝見して、実際のブリキトースはどんなものだったのか気になっていました。

そして、本日放送の大河ドラマ「真田丸」の題名は『砲弾』・・・ということで、注目してみたのでした。



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NHK大河ドラマ「真田丸46回:砲弾」の場面より
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大坂冬の陣で配備された当時の最新鋭大砲「カルバリン砲」・・・これが大和高取藩に伝わったものと同型なのでしょうか???御教示願いますm(__)m

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カルバリン砲
カルバリン砲(カルバリンほう、culverin)は近世に用いられた弾丸重量18ポンドクラスの中口径前装式大砲。また、半カルバリン砲(Demi-culverin)という9ポンドの弾丸を発射するものもある。カルバリンという名称はラテン語のcolubrinus(「ヘビのような」)という言葉に由来し、その砲身の長さを表している。砲身は青銅鋳造されていたが、後に鉄製の鋳造砲も製造される様になる。
16世紀から17世紀に用いられ、騎乗兵歩兵に危害を加えた。また一方で艦載砲としても搭載され、カノン砲よりも威力は低いが長射程を有すためアルマダの海戦で活躍した。
日本においては江戸時代初期、大坂の陣に備え徳川家康イギリスから4門購入した。 (Wikipedia)


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参考:「おお、大砲」の一節(「人斬り以蔵」に収録)

大軍都・東京を歩く

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平和な首都・東京も、明治維新から昭和20年の終戦までは、世界でもまれにみる大軍都だった。現代の東京に残る“軍”の足跡を歩いてたどる本。散歩しながら明治~昭和初期の時代の流れもわかる!
1章 数々の歴史の舞台となった皇居周辺
2章 実戦部隊が集中する町--赤坂・青山・芝
3章 平和な公園に悲しみの歴史--外苑前・代々木
4章 文教地区で作られていた武器--水道橋・茗荷谷
5章 尾張徳川家の跡地は軍人学校に--市ヶ谷・早稲田
6章 一大軍事工場だった城北<前編>--板橋・赤羽
7章 一大軍事工場だった城北<後編>--十条・王子
8章 閑静な住宅街に残る跡--池尻大橋・駒場・三軒茶屋
9章 おまけのショートコース--築地、中野、本所深川
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
三宅坂・参謀本部、近衛師団司令部…戦争の足跡を散歩する。戦後70年。近現代史を歩いて学ぶ。

以前、つぶやき先生に紹介していただいたものです。これを来年度の東京散歩の参考にしようかと。


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