YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2017年02月

陸軍用地境界石in市ヶ谷~市谷亀岡八幡宮~【東京逍遥記9】

防衛省の見学終了後、隣接する場所にある「市谷亀岡八幡宮」へ向かいます。
参考文献から入手した情報では、ここに「陸軍用地の境界石柱」があるとのことなので、是非とも探索しておかなければなりません。

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江戸切絵図にある「尾張殿(尾張藩上屋敷)」は、戦前には陸軍士官学校から陸軍省へ。そして、現在の防衛省となります。隣接する八幡町の同じ場所には市谷(亀岡)八幡宮。

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市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)は、東京都新宿区市谷八幡町にある神社。
当神社は太田道灌文明11年(1479年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移[1] 市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという。その後明治に入り、神仏分離令により別当寺であった東円寺[2]が廃寺となり(1872年)、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられかつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失。1962年に現在の社殿が再建される。現在でも地域の人々などから信仰を得ている。(Wikipedia)

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市ヶ谷の台地に上ります。

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文化元年建立の銅鳥居。
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昭和55年建立の狛犬デザインは印象深い。

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参道を進み・・・

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裏参道の陸軍用地境界石を探索します。

しばらく探して・・・3点の境界石柱を確認できました
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街の中に残る歴史の痕跡・・・ほとんど注目されることのない陸軍境界石には魅力を感じます。

裏参道沿いにある寺の石垣には、
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地名を示す文字が刻まれています。

参考文献:大軍都・東京を歩く の著者・黒田涼氏制作の参考動画

市ヶ谷台ツアーin防衛省2/2~市ヶ谷記念館資料編~【東京逍遥記8】

時間の制限もあり、館内資料をじっくりと鑑賞することは出来ませんでしたが、その一部を撮影しました
(東京裁判の資料については撮影不可となっています。)

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梅津 美治郎(うめづ よしじろう、1882年明治15年)1月4日 - 1949年昭和24年)1月8日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将
太平洋戦争の降伏文書調印式全権を依頼されると、降伏に賛成した米内光政や鈴木貫太郎(終戦当時の首相で、元海軍大将)らが適役であるとして一旦は拒否した。しかし、昭和天皇から直々の願いを受けて重光葵らと共に出席する事となった。この際息子に対して「(二・二六事件とノモンハン事件の事後処理に続いて)今度もまた後始末だよ」とぼやいたという[要出典]調印式では、持参した万年筆の調子が悪く、副官のものを借りて署名したといわれている[要出典]
東京裁判の法廷では、田弘毅重光葵等と同様に、証言台には立たず、沈黙を守り続けたが、東郷茂徳の証言内容に対しては、声を荒らげて反論する場面もあった。
極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。1978年(昭和53年)に靖国神社に合祀される。(Wikipedia)

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栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年明治24年〉7月7日1945年昭和20年〉3月26日)は、日本陸軍軍人最終階級陸軍大将位階勲等従四位勲一等旭日大綬章)。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。
第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)として知られる。(Wikipedia)

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竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年明治15年)9月22日 - 1919年大正8年)4月23日)は日本皇族・陸軍軍人。
1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。1919年(大正8年)4月23日、当時流行していたスペイン風邪のため薨去。(Wikipedia)

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阿南 惟幾(あなみ これちか)は、1887年明治20年)2月21日 - 1945年昭和20年)8月15日)は、日本陸軍軍人陸軍大将正三位勲一等功三級
1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣陸軍大臣に就任した。太平洋戦争大東亜戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において戦争継続を主張したが、聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、8月15日に自害。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初である。(Wikipedia)

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東京裁判で使用された地図(拡大↓)
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以上、
歴史的建造物の中に展示された現物資料が相乗効果で醸し出す近・現代史を感じたのでした

市ヶ谷台ツアーin防衛省1/2~日本国防の中枢~【東京逍遥記7】

翌日、宿泊地の秋葉原から総武線で市ヶ谷駅下車。徒歩数分で「市ヶ谷台の防衛省」に向かいます。
かつての市ヶ谷台には江戸期には尾張藩徳川家上屋敷、明治からは陸軍士官学校、戦時中は陸軍省・参謀本部、戦後は自衛隊市ヶ谷駐屯地がありました。そして現在は国防の中枢・防衛省があります。
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朝9時過ぎ、防衛省正門前に到着。通勤時間帯の防衛省・・・約1万人の職員がいるそうです。
防衛省(ぼうえいしょう、英語: Ministry of Defense[2]、略称:MOD)は、日本の中央省庁の一つである。
日本平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とし、このために、陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊(陸海空自衛隊)を管理・運営し、並びにこれに関する事務を行うことを任務とする。
戦争放棄及び"戦力"の不保持を定めた日本国憲法第9条のもと、日本の国防を所管する行政機関であり、国家行政組織法3条および防衛省設置法2条に基づき内閣の統轄の下に設置される。長である防衛大臣は、陸海空自衛隊を含む防衛省全体の組織を統括する。1954年昭和29年)7月1日以来、防衛庁として総理府内閣府外局だったが、2007年平成19年)1月9日防衛省へ移行、内閣の統轄の下に行政事務をつかさどる機関であるの一つとなった。
任務は防衛省設置法が「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とし、これがため、陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊を管理し、及び運営し、並びにこれに関する事務を行うこと」(3条1項)と「条約に基づく外国軍隊の駐留及び日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定の規定に基づくアメリカ合衆国政府の責務の本邦における遂行に伴う事務で他の行政機関の所掌に属しないものを適切に行うこと」(3条2項)と規定する。
内部部局として大臣官房、防衛政策局、整備計画局、人事教育局、地方協力局を、審議会等として防衛施設中央審議会、自衛隊員倫理審査会及び防衛人事審議会を、施設等機関として防衛大学校、防衛医科大学校及び防衛研究所を、 特別の機関として防衛会議統合幕僚監部陸上幕僚監部海上幕僚監部航空幕僚監部陸上自衛隊海上自衛隊及び航空自衛隊等を、地方支分部局として8つの地方防衛局を、外局として防衛装備庁を置く。行政組織法上はこれらすべての機関が防衛省の一部であるが、マスコミ報道においては防衛庁の時代から「特別の機関」である陸海空自衛隊を除いた部分、特に内部部局のみ指して防衛省と呼ぶことが多い。(Wikipedia)

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事前予約していた平日限定の「市ヶ谷台ツアー」午前の部の受付へ。身分証明と照合します。

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この日は40名の参加。通常よりは参加者が少ないとか。

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概要説明。

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重厚な庁舎と220mの通信鉄塔。

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広大な敷地・・・一部撮影不可。地対空装備第1高射群があるらしいですが、見当たりませんでした。

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移築・復元された歴史的建造物としての市ヶ谷記念館へ。

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市ヶ谷記念館・・・陸軍士官学校本部、大本営陸軍部、そして昭和21年からの極東国際軍事裁判(東京裁判)で使用されました。

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大講堂には、かつての玉座。

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歴史を刻む大講堂の床。

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極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、英語: The International Military Tribunal for the Far East)とは、第二次世界大戦日本が降伏した後の1946年昭和21年)5月3日から1948年昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。東京裁判とも称される。(Wikipedia)

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東京裁判が行われた2階から見た大講堂。

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旧陸軍大臣室にて。戦後には三島事件が起きた場所で、ドアには刀痕があります。

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旧便殿の間(陛下の休息所)にて。

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昭和9年:群馬県における特別大演習の写真。
最前列中央には昭和天皇。そして山本五十六、鈴木貫太郎、東條英機などの姿もあります。
約3,800名の将校にはすべてピントがあっており、その鮮明な画質には驚きました。
 
記念館見学後、野外展示のヘリへ。
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陸上自衛隊で使用されていた多用途ヘリUH-1H(ひよどり)に搭乗できました。

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UH-1英語: UH-1 Iroquois・イロコイ、愛称:Huey・ヒューイ)は、アメリカ合衆国ベル・エアクラフト社が開発したモデル 204/205/212ヘリコプターアメリカ軍における制式名称。1959年よりアメリカ陸軍で採用され、ベトナム戦争などで活躍した。現在は後継機種のシコルスキーUH-60 ブラックホークに置き換えがすすんでいるが、日本陸上自衛隊を含めて多くの国々では現役である。
陸上自衛隊2015年3月末時点でUH-1HとUH-1Jを131機保有している。87式地雷散布装置を機外側面に取り付けることができる。1972年(昭和47年)からは、機体を大型化しエンジンをT53-K-13Bに強化したUH-1Hの調達に切り替え、1991年平成3年)までに133機を納入、民間型のB204も販売した。富士重工の提案により陸上自衛隊のUH-1Hは米軍のものとは異なりテール・ローターがトラクター型になっており、横風での方向制御特性が改善されている。導入当初はUH-1Bと同様の塗装をしていたが、逐次迷彩塗装に切り替えられている。
UH-1Hの最終生産8機は暗視ゴーグルJAVN-V6)対応コックピットとなり、末期生産の少数はヘリコプター映像伝送装置(ヘリテレ)または赤外線監視装置が搭載された。全機退役済み。(Wikipedia)

そして厚生棟で休憩後、
最後にメモリアルゾーンにある「殉職者慰霊碑」の前で黙祷・・・ツアー終了となったのでした。

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◎説明はありませんでしたが・・・メモリアルゾーンには訓練用トーチカが残存しています。

続いて、市ヶ谷記念館資料編へ

神田まつや~江戸の蕎麦を味わう~【東京逍遥記6】

神保町から寒風吹きすさぶ中・・・東へ歩き、神田須田町へやってきました。
池波正太郎の足跡を訪ねるシリーズです★

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神田まつや
東京都千代田区神田須田町1-13

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明治17年 福島家の初代 市蔵氏が創業。その後2代を経て、関東大震災後 小高家の初代政吉が継承しました。2代目賢次郎はそばの製法技術を「魚藍坂の藪そば」の出身で後の大森梅屋敷藪そばの創業者 関谷作太郎氏に学びました。
小高家3代目の登志は前述「蕎風会」にて「神田藪そば」の先代、「上野蓮玉庵」の先代、「神田錦町 更科」の先代等々老舗の錚々たる方々にそば打ちの技法並びに営業のノウハウを学び、その集大成が現在の「神田まつや」の姿と云えます。
神田まつやは、かつて、美食家としても名高い池波正太郎氏(小説家)に愛され、下駄履きで通って頂きました。壁にかかっている古いこね鉢や柱時計を見ていると、往時が偲ばれます。http://www.kanda-matsuya.jp/p01.htm

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冷えた身体に・・・熱燗

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そして、「鴨南ばん」とともに・・・やはり醸し出す歴史と雰囲気だけでも満足でした

喫茶さぼうる~古書の街の異空間~【東京逍遥記5】

古書・古地図鑑賞の後、風情あふれる神保町の路地にある喫茶店へ。
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さぼうる
千代田区神田神保町1-11
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店の前にポツンと佇む赤い公衆電話。落書きだらけのレンガ壁。温かみのある木製のテーブルは、開店時にスタッフが自らの手で作ったという。             
買ったばかりの文庫本を一心不乱に読みふける学生。言葉を交わさずとも、ただ見つめあっているだけで幸せそうな若いカップル。そして、紫煙をくゆらせながら打ち合わせをする作家と編集者たち……。完全なまでに「昭和の面影」が残っている喫茶店、それが『さぼうる』だ。
「かれこれ半世紀。神保町とは本当に長い付き合いになりました」と感慨深げにふりかえるのは店主の鈴木さん。52年という歴史があるだけに常連客やリピーターは数知れず。「気の置けない友人たちと夢を語り、恋人と愛を語り、そして将来を誓い合った。それこそコーヒー1杯で何時間もねばったものでしたね。私にとってこの店は青春そのものです」と語るのは、学生時代にここで恋人と逢瀬を重ね、ついに結婚したというオールドファン。現在は東京を離れているが、銀婚式のお祝いに25年ぶりに来店したという。こういうエピソードを聞くたびに、「私が売っているのはただのコーヒーや紅茶じゃありません。この1杯のコーヒーのなかには、いくつもの『夢』や『ドラマ』、そしてかけがえのない『思い出』が詰まっているんですよ」と微笑む鈴木さんの言葉が胸に沁みてくる。そして我々もまた、「夢と思い出のかけら」を求めて、ここ『さぼうる』に足を向けたくなるのだ。http://go-jimbou.info/shoku/cafe/cafe001_sabouru.html

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かつては作家の「遠藤周作」も訪れていたそうです。

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満員で落ち着けませんでしたが・・・

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チーズケーキとコーヒーで、異空間のひとときを過ごしたのでした

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