YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2017年03月

同型品入手(*´▽`*)

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アムステルダム運河殺人事件

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
アムステルダムの運河に浮かぶトランクから死体が見つかった。首、両脚、両手首が切断された死体は日本人商社マンのものと判明するが、捜査は進まず迷宮入りに。そこで記者である「私」は友人の医者と共に調査に乗り出す。一九六五年に起きた実際の事件を著者が謎解く表題作。ゴルフの聖地を舞台とした日本人変死事件「セント・アンドリュースの事件」も併載。
【目次】(「BOOK」データベースより)
アムステルダム運河殺人事件/セント・アンドリュースの事件

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昨年、「島田荘司と『ばらのまち福山ミステリー文学新人賞』受賞者たち」&トークイベント で展示されていた「アムステルダム運河殺人事件」を想い出して読了した。
これは実際にあった’迷宮入りした事件’を題材にしたもの。清張の、こういう実際の事件を取り上げたものも興味深い。

夜勤はつらいよ・・・覚醒したい(ノД`)・゜・。

今月から・・・覚醒錠剤を服用しています。1錠あたりカフェイン100mg
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戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
四国・畿内戦線で活躍し、足利義栄を将軍に擁立。松永久秀・三好三人衆と戦い、信長にも一目置かれた戦上手であったが、主君により非業の最期を遂げる。戦国を生ききれなかった名将の激動の生涯をたどる。
【目次】(「BOOK」データベースより)
阿波篠原氏の系譜/篠原長房の登場/阿波三好氏の家老職と居城・上桜城/三好氏の内訌と義栄の将軍就位/三好三人衆と長房の活躍/キリスト教の記録に見える“篠原殿”/信長の入京と摂津での合戦/長房の讃岐経営/備前をめぐる毛利元就との戦い/反信長勢力の結集と崩壊/上桜合戦と長房の討ち死に/三好氏と篠原氏の家臣団について/長房の子女と篠原一族/長房の子孫をめぐる伝承


に続いて阿波三好氏とその周辺の物語です。
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逃亡先の阿波で死去した10代将軍:義稙・・・阿波公方の足利義冬・・・阿波から上洛しようとした14代将軍:義栄・・・三好本家と阿波三好家・・・三好三人衆と松永久秀・・・そして篠原長房・・・内紛等々、複雑怪奇な三好家絡みを少々探求しております
ということで、ひそかに阿波国探訪検討中なのです


篠原 長房(しのはら ながふさ)は戦国時代武将三好氏の家臣で阿波国麻植郡上桜城主。篠原長政の子。
三好長慶の弟・三好実休の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐し阿波において三好家中をまとめた。三好氏の分国法である新加制式の編纂にあたるなど、能吏として知られる一方で、阿波・讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵した。
・・・畿内の三好宗家に内訌が起こると、永禄9年(1566年)6月に足利義栄を擁立し三好長治・細川真之(細川持隆の子、長治の異父兄)を奉じて四国勢を動員し畿内に上陸した。長房は三好一門の有力者・三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対、同年9月には、松永方の瓦林三河守より摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和国ほか各地に転戦した。
永禄11年(1568年)2月には14代将軍・足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、三人衆と共に松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落すなど(信貴山城の戦い)、宗家当主・三好義継の離反があったものの久秀との戦いを優勢に進めている。
この時期の長房は、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されるほどであった[4]。阿波・讃岐両国をよくまとめて長慶の死後退勢に向かう三好氏を支えたといえる。(Wikipedia)

石谷家文書将軍側近のみた戦国乱世

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
室町幕府奉公衆だった石谷光政・頼辰親子二代にわたる文書群、全三巻四七通の写真と翻刻を掲載し解説を付す。姻戚関係や長宗我部元親に関するもの、本能寺の変前後の書状まで、戦国時代の解明に一石を投じる貴重史料。
【目次】(「BOOK」データベースより)
林原美術館所蔵石谷家文書(林原美術館什物/石谷家文書の概要)/史料編


数年前に石谷家文書の件が発表されて以来・・・


上記のように注目していました。
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その後、この石谷家文書をまとめた書籍が発売されていたのですが、ようやく読了できました。
備後・鞆幕府における足利義昭と真木島昭光の暗躍が興味深いです。
長宗我部元親とその周辺の四国情勢に関心があるので、資料として保存版にしようと考えています。



真木島 昭光(まきしま あきみつ、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。苗字は真木嶋槇島とも。室町幕府の第15代将軍足利義昭の側近で、その偏諱を賜り昭光と名乗る。孫六郎、玄蕃頭を称す。
一色氏の一族である一色信濃守輝元(輝光)の子であり、輝元が山城国槇島城を与えられて槇島(真木島)を姓とする。幕府に奉公衆の一員として仕えた。ただし、槇島(真木島)氏に関しては第9代将軍・足利義尚の奉公衆として「真木嶋六郎藤原光通」の名前があり、輝元父子がその末裔あるいは同家の養子であった可能性もある[1]
昭光の名前が幕臣として登場するのは義昭の時代に入ってからである[1]
織田信長と対立した室町幕府将軍・足利義昭を迎え、反信長の兵を挙げた義昭に従って織田氏と戦うが、羽柴秀吉の軍に対し開城(槇島城の戦い)。その後、義昭は信長に京都を追われ流浪するが、昭光は義昭に従い河内国三好義継中国地方毛利輝元らの元へと随行した。同じく幕臣であった一色藤長が中国地方への下向に加わらず義昭の下を去った後は義昭の側近の筆頭となる[1]。義昭が毛利氏の庇護の下、備後鞆の浦において御所を構え将軍としての活動(鞆公方)を再開し、京都復帰のため反信長同盟(信長包囲網)の再構築を目論むと、将軍側近の筆頭として一色昭秀上野秀政らとともに使者や御内書の添状の作成などに携わった。
信長が死去し豊臣秀吉が台頭した後も義昭の近臣として仕え、足利幕府再興のために薩摩国島津氏への援助要請を行ったり、豊臣秀吉と誼を通じた上での義昭の京都への帰還の実現にも関わった。また、毛利輝元が豊臣政権への帰服のため上京し義昭と再会した際には奏者としての任務を果たした。義昭が死去すると、西笑承兌と共に秀吉の命を受けて葬儀を担当した[2]
その後、豊臣氏に2,000石で仕えて奏者番を務めた。秀吉の死後は豊臣秀頼に引き続き仕え、大坂の陣でも豊臣方に属し、慶長19年(1614年)10月にはに出陣している。合戦を生き残り、京都で出家して云庵と名乗る。後に細川忠興加藤嘉明らの嘆願により助命された。以降は細川氏に仕え、1,000石を給されて元和9年(1623年)から中津城留守居役を勤めた。[要出典]没年は不詳。(Wikipedia)

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