2017年05月
翌日、徳島市から吉野川沿いに西へ・・・吉野川市の川島町へ向かいます。

目的地は、戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書) で気になっていた「上桜城」です。
吉野川沿いの徳島平野地帯と四国山脈の北側、標高142mの前山に築かれた山城。旧麻植郡あり川島城から南へ約1kmに位置し、篠原長房の居城であった。城は東西に独立した新城と古城から2つの城から構成されている。城山には大きな桜林があったので城名を植桜と呼ばれたようである。
山道を走らせて城跡入口に到着。






主郭部・・・本丸へ。

本丸の風景。

三好氏のもとで長年働いてきた結果・・・理不尽な戦いを強いられた篠原長房は無念であったことでしょうね。


本丸からの眺望・・・上桜の戦いと落城が三好氏没落を加速させたようですが、まあ歴史は必然といったところでしょうか。
同じく勝瑞城内。

本丸跡は現在、三好氏の菩提寺「見性寺」になっています。
その一角には、三好氏の墓。

三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争(中世武士選書) にもあるように三好一族は内部抗争を繰り返すものの、阿波国を支配しました。



義冢(ぎちょう)とは一般に義塚と書き、弔う縁者のない人の墓、つまり無名戦士の墓を意味する。この勝瑞義冢碑は、天明三年(1783)に勝瑞村の庄屋、岩佐谷助(いわさやすけ)が建てたもので、撰文は徳島藩儒の那波魯堂(なわろどう)である。
那波魯堂は播磨姫路の人で、聖護院宮忠誉法親王の侍読を務めた後、安永7年(1778)に阿波藩主蜂須賀治昭に招聘され、寛政元(1789)年に徳島で病没した。
石柱の三面にはびっしりと文字が刻まれている。名文だと聞いたが読み取ることができない。そこで調べてみると、藍住町教育委員会『藍住歴史かるた解説書』に概要が記されていた。読んでみよう。
碑には、まずこの地方の水害による堤防工事にあたって多くの遺骨が発掘されたことが記されている。次に勝瑞城に拠る細川・三好両氏の抗争と興亡や天下の形勢について、また長宗我部氏の侵攻と勝瑞の壊滅について記し、遺骨の出る原因について述べている。そして、最後に無縁仏の供養のために墓を築造したことと、そのことによる霊験に期待することが記されている。
ちなみに、かるたの句は「落城の 哀感伝える 義冢の碑」である。「落城」とあるが、地図で堀が確認できることから分かるように、この地は「勝瑞城趾(しょうずいじょうあと)」である。国指定史跡「勝瑞城館跡」の一部となっている。http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2015/05/%E5%8B%9D%E7%91%9E%E5%9F%8E.html


江戸時代には、この地方で多くの遺骨が発掘されたとか・・・長宗我部氏との激戦を物語ります。
高松自動車道で徳島県に入り、板野ICから徳島平野の藍住町に向かいます。
この藍住町にある「勝瑞城跡」・・・戦国期における阿波国の政治経済の中心地。守護・細川氏がいた場所で、のちに家臣の三好氏が実権を奪った場所でもあります。
まずは、近年発掘された城館跡へ。

勝瑞城(しょうずいじょう)は、徳島県板野郡藍住町勝瑞(阿波国板野郡勝瑞)にあった日本の城(平城)。平城跡と居館跡が2001年(平成13年)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年(平成19年)に追加指定された[1][2][3]。阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている[4]。
勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、日本の中世史上重要な城跡である。旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われている。海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、紀伊水道を隔てて京畿にも便利な要害の地でもあった。当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。室町時代の守護所のプランをよく伝える貴重な遺構である。
勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、最後の砦として築かれた可能性が指摘されている。


続いて、城館から北東にある城跡へ。







土塁や水堀を眺めつつ、三好氏と長宗我部元親の攻防を考えてみたり。

天正10年(1582)…本能寺の変によって織田信孝軍の四国攻めが中止となり、長宗我部元親が攻勢にでます。そして、阿波の中心地:勝瑞攻防戦(中富川の戦い)で勝瑞城を落とした長宗我部元親は四国制覇の目途がついたという場所ですね。
下記コメントで情報をいただきましたm(__)m
やはり近年、三好氏と三好長慶について注目され始めているのでしょうか?
良いことですね~拝聴しましょう



先日のこと、四国へ渡り・・・
昨今関心がある「戦国三好氏」について、その関連周辺を探索すべく阿波の国:徳島県に行ってきました

ということで・・・その時の見聞を少しばかり綴ってみようかと想います


瀬戸中央自動車道を南下。下津井を渡り、

備讃瀬戸を越えて、

讃岐の国へ入りました★
津田の松原SAで、かまたまうどんを食べつつ三好氏のことについて連想してみたり。
その昔、戦国時代の讃岐といえば三好氏の勢力範囲でした。

三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。(Wikipedia)
細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する[4]。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。織田信長に先行する「最初の戦国天下人」とも呼ばれる存在[5]だが、現代での評価は芳しくなく、重臣・松永久秀と共に「下剋上をした悪党」として酷評されたり[6]、「松永久秀の専横、壟断を許した凡庸な大名」と評されている[7]。(Wikipedia)
三好氏の全盛期を築いた三好長慶の時代・・・本国の阿波をはじめ、讃岐や淡路を兵站基地として畿内を制圧していました。
永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた)。当時、長慶の勢力に匹敵する大名は相模国の北条氏康くらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。(Wikipedia)
上記の参考勢力地図の永禄2年から永禄6年頃の情勢を見ると、三好氏が天下を獲りそうな勢いです。
(地方の諸勢力も拡大中・・・毛利氏が最有力?)
しかし、永禄7年に長慶が死去すると三好一族は内部抗争を繰り返して勢力減退という流れ。
永禄8年には将軍義輝を殺害(13代将軍:足利義輝討死の地~二条御所武衛陣~【京阪神探訪記4】 )したり、松永久秀と三好三人衆との対立で奈良の大仏殿が焼失したりと事件を引き起こします。
そして、14代将軍を擁立するものの・・・直後に織田信長が上洛して畿内から駆逐されました。
その後、三好氏本拠地の阿波と讃岐は長宗我部元親によって奪われて表舞台から消えてしまいます。
(三好氏傍流は江戸幕府の旗本として存続)
三好一族が結束していれば・・・将軍義輝殺害時に義昭も始末していれば・・・とか、

そんな事を考えながら・・・高松自動車道を運転していると国境を越えて「阿波の国」に入りました。まずは最初の目的地へ向かいます。
次回へつづく

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