YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2017年06月

不規則生活で負債蓄積・・・(T_T)


不規則な生活が継続しています(ノД`)・゜・。

巷で注目されている「#睡眠負債」も、どんどんどんどん蓄積されています。

現状、頑張っていて無理もしています。

仕方ないし、どうしようもないので・・・

今後も、精神と体力の限界を超えて行こう ・・・と決意しました。
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たすけてください。


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応仁の乱(中公新書)

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
室町幕府はなぜ自壊したのかー室町後期、諸大名が東西両軍に分かれ、京都市街を主戦場として戦った応仁の乱(一四六七~七七)。細川勝元、山名宗全という時の実力者の対立に、将軍後継問題や管領家畠山・斯波両氏の家督争いが絡んで起きたとされる。戦国乱世の序曲とも評されるが、高い知名度とは対照的に、実態は十分知られていない。いかなる原因で勃発し、どう終結に至ったか。なぜあれほど長期化したのかー。日本史上屈指の大乱を読み解く意欲作。
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 畿内の火薬庫、大和/第2章 応仁の乱への道/第3章 大乱勃発/第4章 応仁の乱と興福寺/第5章 衆徒・国民の苦闘/第6章 大乱終結/第7章 乱後の室町幕府/終章 応仁の乱が残したもの
【著者情報】(「BOOK」データベースより)
呉座勇一(ゴザユウイチ)
1980年(昭和55年)、東京都に生まれる。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』で角川財団学芸賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


昨年から注目されている中公新書の「応仁の乱」を読了★

この乱で大きな役割を持つ・・・というか印象に残ったのは「畠山義就」ですね。
どうも、最初の戦国大名的存在のようです。

最近は日本史の中世における魅力が広まってきているのでしょうか?
情報によると、近々「観応の擾乱」も刊行されるとか・・・これも読まないといけません。


畠山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将守護大名である。河内紀伊山城越中守護。足利氏足利将軍家)の一門にて室町幕府三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅義豊(基家)。猶子に政国
家督相続を巡って従弟の弥三郎政久政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。
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応仁の乱では義就は宗全率いる西軍に属して政長と戦い、内裏や東寺に陣取り10月3日相国寺の戦い、翌応仁2年(1468年)の東軍足軽大将骨皮道賢討伐にも参戦。西軍きっての戦上手として河内・大和・摂津・山城を転戦、山城の実力支配も行った。文明元年(1469年)に東軍寄りだった山城西部の乙訓郡を占拠(西岡の戦い)、勝竜寺城を根拠として山崎に陣取った西岡国人や山名是豊、河内の政長派などと戦った。
文明5年(1473年)、宗全と勝元が死去したのち、東西両軍の和睦が進められる中、義就は講和に反対していた。文明9年(1477年9月21日に政長討伐のために河内へ下り諸城を陥落、10月9日に政長派の守護代遊佐長直若江城から追い河内を制圧する(若江城の戦い)。越智家栄と古市澄胤らも大和を制圧、政長派の筒井順尊箸尾為国・十市遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。義就が河内方面に下向後の11月11日、京では東西両軍の間で講和が成立し、西軍諸将は相次いで帰国して解散、応仁の乱は終結した[6]
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実際の支配状況はともかく、名目上の河内守護と畠山氏当主は依然として政長のままであり、河内を実質領国化している義就に対して幕府は度々追討令を発したが効果は無く、河内と大和は義就が実効支配したままであった。
文明9年からしばらくは平穏であったが、文明14年(1482年)3月に幕府の命を受けた細川政元と政長連合軍が義就追討に出陣した。義就は7月16日に政元単独と和睦、政元は河内十七箇所と摂津欠郡(東成郡西成郡住吉郡)の交換を条件に自軍を撤退させたが、政長は河内に留まり義就との抗争を継続した。義就は河内から山城国南部に侵入、翌文明15年(1483年)に南山城を掌握し、河内の政長方を掃討して河内の実効支配を確立した(犬田城の戦い)。ただし、主戦場となった山城では義就・政長の争いも膠着状態となって以降、業を煮やした国人衆により文明17年(1485年)に国人一揆が起こり(山城国一揆)、畠山両軍は撤退を要求されたため義就軍は河内に引き上げた。以後も義就に対して幕府から追討令が出されたが、実行されないまま終わった。
延徳2年12月12日(1491年1月21日)、義就死去。享年54。(Wikipedia)

火の路

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火の路』(ひのみち)は、松本清張の長編推理小説。『朝日新聞』に『火の回路』のタイトルで連載され(1973年6月16日 - 1974年10月13日)、改題の上、1975年11月・12月に文藝春秋から刊行された。
ペルシア人ゾロアスター教徒の飛鳥時代伝来説を描き話題を呼んだ、著者の古代史ミステリーの代表的長編。
革命前、パフラヴィー朝末期のイランが重要な舞台となっている。
カメラマンの坂根要助は、奈良県明日香村の石造遺跡を取材中、遺跡を真剣に観察する女性・高須通子に出会う。通子は奈良市内に宿泊していたが、散歩中に法華寺の近くで男が刺されているのを発見する。被害者・海津信六に同情した通子は供血を思い立つが、病院に向かう途中で坂根と再会した。海津の歴史学徒時代の噂を耳にした坂根は、海津周辺の人間関係に疑問を抱くようになる。他方、論文「飛鳥の石造遺物」を発表した通子のもとに、海津から供血の礼を兼ねた丁寧な感想が届いた。海津との議論や文通のやりとりによって自らの仮説を検証していく通子は、イラン行きへの思いを深める。(Wikipedia)

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酒船石(さかふねいし)
小高い丘の上にある花崗岩の石造物。主軸はほぼ東西で、現存の長さ約5.5メートル、幅(南北)約2.3メートル、厚さ約1メートルであるが、北と南の一部が欠けている。上面に皿状のいくつかのくぼみとそれを結ぶ溝が刻まれている[1]。酒を造る道具、あるいは薬などを造るための道具とも言われ諸説あるが定かではない[2]。近くに水を引いたと見られる土管や石の樋も見つかっていることから庭園の施設とも言われている。
後世江戸時代に高取城を築城するため石垣用の石材として利用しようとしたと思われる石割用の石鑿の跡が見られ、上面の造形が欠損している[3]1927年(昭和2年)4月8日、国の史跡に指定された。(Wikipedia)


明日香の古代史から始まり、ゾロアスター教に及ぶ・・・まさに古代史ミステリー(*´▽`*)
さらにイラン紀行が興味深い内容でした★

『BLACK TRAIN』8月16日発売ニューアルバム

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8月16日発売ニューアルバム
予約注文完了!
武道館ライブは断念・・・(ノД`)・゜・。

【戦国を語ろう!】~「三好長慶と織田信長 他」~in就実大学

先日のこと・・・奇跡的に偶然情報を得た講演会に参加しました。夜勤明けで意識朦朧とした状態で、なんとか会場にたどり着くことができたのでした
この講演内容は、
三好氏随想~阿波の国へ~【阿波徳島探索録1】 等の『三好氏』に関連するものなので、是非とも拝聴しなければなりませんイメージ 3
場所は岡山市の就実大学。

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JR西川原駅から徒歩数分。

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会場に到着しました!

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いずれも興味深い内容ばかり

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今回、最注目したのは・・・
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最後の質問コーナーも秀逸内容で、とても充実した時間を過ごすことができました

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