YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2017年10月

宝来~宮崎ラーメン~【日向宮崎探訪記14】

やはり・・・宮崎県に来たからには、味わっておかなければなりません
ということで、ご当地・宮崎ラーメン・・・地元の老舗を調査して潜入したのでした
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宝来 (ほうらい)
 宮崎県 宮崎市 千草町 1-1 愛ビル1F

宮崎ラーメン(みやざきラーメン)とは、宮崎県で提供されているご当地ラーメン豚骨からスープをとる博多ラーメンの系統であるが、ドロっとした豚骨特有の濃厚さがなく、九州の他県の豚骨ラーメンと比べるとあっさりとした豚骨スープが特徴[1][2][3]。宮崎県北地域ではこってりとしたスープを提供している店も多い[2]
麺は、加水率が高く柔らかめの太麺が使われる事が多い[1][2]。好みによってニンニク醤油をスープに入れることもある[3]たくあん突き出しとして供されるのが基本である[2][3]。(Wikipedia)

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九州は豚骨ですな~

飫肥城跡~伊東氏:五万一千石~【日向宮崎探訪記13】

大手門通りを北へ向かい、飫肥城大手門に突き当たりました。
ここは戦国時代に日向・伊東氏と薩摩・島津氏が約百年にわたり争った地でもあります。
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飫肥城(大手門)
飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥)にある日本の城である。江戸時代伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。
飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。時代は下って、室町時代末期の長禄2(1458)年、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。
戦国初期は薩摩国戦国大名島津氏の属城で、はじめ築城主の土持氏が治めていた。1484年に日向中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだ。しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。
1567年、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配となった。
伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵羽柴秀吉に仕え九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により再び飫肥の地を取り戻し、大名として復活を成し遂げた。以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど巧みに立ち回り、廃藩置県飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした。
祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった1587年までは103年の長きに及ぶ。これだけの長期間に渡って伊東氏・島津氏という2つの勢力が一貫して1つの城を巡って争い続けた例は、日本の戦史において稀有な例と言えよう。(Wikipedia)

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庵木瓜

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大手門桝形石垣

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最後に城内本丸跡にある歴史資料館で飫肥の歴史に触れたのでした。

伊東家累代墓地~小村寿太郎と飫肥城下町~【日向宮崎探訪記12】

西南戦争戦没者墓地から近接する神社へ。その神社には飫肥藩主「伊東家」の墓地があります。
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中央は、”伊東氏中興の祖”初代藩主:伊東祐兵です。

伊東 祐兵(いとう すけたけ/いとう すけたか)は、安土桃山時代武将大名日向伊東氏12代[3]伊東氏18代)当主。日向国飫肥藩初代藩主。『南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)』や『伊東氏系図』[4]では、”伊東氏中興の祖”と書かれている。
伊東義祐の三男。永禄11年(1568年)から飫肥城に入城、島津氏と戦う。しかし、天正5年(1577年)に、福永祐友米良矩重らの謀反に呼応した島津氏の侵攻によって父・義祐が佐土原を追われると、祐兵は父と共に同行する。米良山中から高千穂へ抜け、大友宗麟を頼りに豊後国に逃れた。これにより、日向は島津氏の一円知行に入った。
宗麟は義祐や孫・義賢のため、また日向をキリスト教国にするという自身の大望のため、天正6年(1578年)に日向へ攻め入り島津軍と衝突したが、大友氏は島津氏に大敗した(耳川の戦い)。大友家中の名立たる武将の多くを失ったこの合戦の発端ともいえる伊東氏一族は、大友領内で肩身が狭くなり、祐兵は義賢と祐勝を豊後に残して、父・義祐と正室・阿虎の方、及び河崎祐長権助父子ら従者20余人と共に海を渡り、伊予国道後河野氏を頼り移住した。しかし、主従の生活は窮乏し河崎祐長は酒造りを営んで生活していたという。
その頃、かつて伊東家に世話になり、伊東氏が国を追われて後は河崎祐長から伊東家再興の祈祷を度々頼まれていた山伏三峯という者が、巡行先の播磨国姫路にて、羽柴秀吉黄母衣衆の一人・伊東掃部助(伊東長実か)と出会った。遠祖を同じくする同族である尾張伊東氏の紹介により、祐兵主従は織田氏に仕官することとなり、与力として羽柴秀吉の付属となった。
本能寺の変による信長死後はそのまま秀吉の家臣団に組み込まれ、天正10年(1582年)の山崎の戦いで活躍し、恩賞として「くりから竜の槍」と河内500石を領地として宛てがわれた。天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定の際に九州平定軍の先導役を務め上げた功績により、旧領のうち清武曾井に2万8,000石を与えられ、大名として復権した。翌16年(1588年)にはかつての本拠地である飫肥も取り戻し、3万6000石に加増された。その後、朝鮮出兵にも参陣した。慶長4年(1599年)、豊臣姓を下賜されている[5]
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伊東氏は西軍に与した。しかし重病の床に伏していたために祐兵は出陣せず、密かに嫡男・祐慶を領国に派遣し軍備を整え、さらに黒田孝高を頼って徳川家康に通じた。領国では家老・稲津重政らが陣頭指揮を執り、伊東氏は東軍として、西軍の高橋元種の属城である宮崎城を攻撃占領した。実はこの時点で高橋氏も東軍に寝返っていたため、戦後に宮崎城は返還させられてしまったが、伊東氏の東軍としての参加と貢献を認められ、戦後に徳川家康から所領を安堵された。(Wikipedia)

次に同じ墓地域にある小村寿太郎墓へ。
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城下町に戻り、小村寿太郎誕生地へ。
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大手門通りを城跡へ向かいます。

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重厚な構えの武家屋敷。

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芸術的な石垣ですね。

西南戦争戦没者墓地~飫肥隊と小倉処平~【日向宮崎探訪記11】

飫肥駅前から城下町を西へ横断して丘の上にある「西南戦争戦没者墓地」へ。
明治10年・・・この飫肥から西郷軍に合流して西南戦争に参戦した小倉処平率いる約500人の『飫肥隊』。
意外にも多人数が参戦していますが、西南戦争の明治10年当時は現在の宮崎県は鹿児島県に編入されていたこともあって西郷軍との一体感のようなものがあったのでしょうか。
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西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年明治10年)に現在の熊本県宮崎県大分県鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、2017年現在日本国内で最後内戦である。鹿児島では丁丑戦として語られている。
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豊後・美々津・延岡方面の戦い
豊後日向方面は、4月末から5月末にかけて、野村忍介が率いる奇兵隊とそれを後方から指揮・支援する池上とその部隊の働きで薩軍の支配下に置かれたが、官軍の6月からの本格的反撃で徐々に劣勢に追い込まれていった。薩軍は都城の陥落後、宮崎の戦い、美々津の戦、延岡の戦いと相次いで敗れて北走し、8月末には延岡北方の長井村に窮することとなった・・・・・・(Wikipedia)


日南市:飫肥へ~日南線~【日向宮崎探訪記10】

翌日、宮崎駅から日南線を南下・・・日向国南部にある伊東氏5万石の城下町、日南市の飫肥へ。
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日南線の南郷行にて。

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雨の中・・・

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通信圏外の山間部を進み

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飫肥駅到着。

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駅前から飫肥藩の城下町へ向かいます。

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飫肥藩(おびはん)は、日向国那珂郡のある南部(現在の宮崎県日南市の全域および宮崎市南部)を支配した。藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名である。
日向伊東氏は鎌倉時代に日向国の地頭に任じられ、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡300町を宛がわれて下向した事に始まる。一時は島津氏との争いに敗れ日向を追われるが、当主伊東祐兵豊臣秀吉九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により飫肥の地を取り戻し近世大名として復活を成し遂げた。
慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは祐兵が大坂で病を得ていた為、成り行きで西軍につくものの、密かに黒田如水を通じて東軍に味方をし、嫡男祐慶を下向させて宮崎城を攻撃。事無きを得た。元和3年(1617年)2代将軍徳川秀忠より飫肥藩5万7千石の所領安堵の朱印状を受けた。
3代祐久寛永13年(1636年)弟の祐豊に3千石を分与して旗本寄合とし、4代祐由明暦3年(1657年)弟の祐春に3千石を分与して表向御礼衆交代寄合としたため、以後、石高は5万1千石となった。
領内は耕地が少なく、山林と海浜に囲まれていた。温暖で湿潤な気候を利用しなどの林業を発展させ、今日でも「飫肥杉」はこの地の特産として残っている。また、同時に漁業も藩財政の一翼を担った。また、薩摩藩同様に「地頭」の名称の職もあった。旧清武城は藩の第二の拠点として、清武地頭が置かれていた。
11代祐民享和元年(1801年)学問所を設け、これが天保元年(1830年藩校振徳堂となった。
幕末の飫肥藩は極度の財政難に陥り、嘉永4年(1851年)には藩士の家禄を1/3に減じ、更に安政4年(1857年)には倹約令を出すほどだった。
明治4年(1871年廃藩置県により飫肥県となった。後、都城県、宮崎県、鹿児島県を経て再置県(分県)された宮崎県に編入された。(Wikipedia)

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