YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2017年12月

オリエント急行殺人事件

以前読んだオリエント急行の殺人 の流れで鑑賞へ★
オリエント急行殺人事件』(オリエントきゅうこうさつじんじけん、原題: Murder on the Orient Express)は、2017年アメリカ合衆国で公開されたミステリー映画である。監督・主演はケネス・ブラナーが務めた。本作は1934年アガサ・クリスティが発表した小説『オリエント急行の殺人』を原作としている。
エルサレムで事件を解決した私立探偵のエルキュール・ポワロが乗車していたオリエント急行の車内で殺人事件が発生する。被害者はその前日にポワロに身辺警護を依頼してきた大富豪、エドワード・ラチェットであった。ラチェットは12カ所を刺されて死亡していた。ポワロが聞き込み調査を実施したところ、乗客乗員の全員にアリバイがあったことが判明する。
事件の捜査は暗礁に乗り上げたかと思われたが、ポワロは天性の直観と丹念な推理で事件の真相を暴き出していく。しかし、衝撃の真相を前にしてポワロは懊悩することになる。真実を優先すべきなのか、それとも、正義を優先すべきなのかと。やがて、彼はある決断を下すことになる…。(Wikipedia)

年末ジャンボ(*^▽^*)

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今年も・・・

宮古行「快速リアス」殺人事件

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
前科二犯の荒木圭介が盛岡発宮古行「快速リアス」の車中で毒殺された。直後、東京で起きたクラブママ殺しの容疑者として、十日以上前に検挙された男が、突然、事件当夜は荒木と飲んでいたと言い出した。証言者はすでにこの世にいない。なぜこのタイミングでアリバイを主張したのか?捜査を開始した十津川警部は、荒木がインターネットで列車を使う怪しげな仕事を引き受けていたことを知る。事件の鍵は岩手のローカル線にあるのか。十津川は、荒木が乗車した一三時五一分発「快速リアス」に乗り込んだ…。



南部信直 戦国の北奥羽を制した計略家(中世武士選書)

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【内容情報】(出版社より)
織豊期の東北地方において、津軽・九戸の叛乱や葛西・大崎一揆にも屈しなかった南部中興の祖である信直。本書では、中世から近世への大変革の時代を生き抜いた彼の激動の生涯と、人情味溢れる人柄を描いています。
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
津軽為信・九戸政実の叛乱や秀吉による奥州攻めなど、数々の苦難を切り抜け、近世盛岡の基礎を築いた実力者の波乱に富んだ生きざまを描く!
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 中世の北奥と南部氏の系譜(北奥の行政構造/二流に分かれた南部氏の系譜 ほか)/第2章 南部氏の台頭(八戸南部氏が急速に衰頽したのはなぜか/安東氏を蝦夷島に逐う ほか)/第3章 信直による南部藩の創設(信直暗殺未遂事件と家督継承時期の謎/南部家督をめぐる石川高信と九戸政実の争い ほか)/第4章 天下への道(緊迫する領内情勢/田中清六を通じて秀吉に贈り物を献上 ほか)/第5章 信直の内政(新たな居城不来方城の建設/秀吉の許可はいつ得られたのか ほか)


北奥州・南部氏の中興の祖、盛岡藩を確立した南部信直・・・その生涯を読了★
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本の表紙・・・この首級は、どうも九戸五郎(九戸政実)のようです。
九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。
九戸以外にも、大規模な奥州での一揆鎮圧のため、秀吉は同年6月20日に号令をかけて、奥州再仕置軍を編成した。
白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家前田利長が、相馬口には石田三成佐竹義重宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗最上義光小野寺義道戸沢光盛秋田実季津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進し蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。8月23日、九戸政実輩下の小鳥谷摂州は50名の兵を引き連れて、美濃木沢で仕置軍に奇襲をかけ480人に打撃を与え、これが緒戦となった。9月1日には九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ち、これに抗した九戸政実は九戸城に籠もり、9月2日には総勢6万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返した。(Wikipedia)

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盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。
同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)がある。(Wikipedia)

名将 佐竹義宣

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
北の伊達、南の北条とつばぜり合いを演じてきた弱小戦国大名・佐竹義宣は、豊臣秀吉の小田原攻めに馳せ参じ、将来を秀吉に賭けた。石田三成の支持のもと、一躍常陸の大大名にのし上がった義宣に、隣国を領した実力者・徳川家康は挟撃を警戒し、しきりに誼みを通じようと接近を図る。豊臣政権の存続こそが佐竹の安泰と見る義宣は、三成、上杉景勝の執政・直江兼続と盟約を結ぶがー。戦国の下剋上に耐え、徳川260年を生き抜き、戊辰戦争さえも東北で唯一新政府軍についた源氏名門の生き残り戦略。


関ヶ原時の対応の結果、常陸水戸54万石から出羽久保田20万石へ・・・経緯からすると佐竹義宣の判断は間違っていなかったという印象です★
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佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将大名佐竹氏19代当主。出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる[1]

【関ヶ原の戦いへの対応】
慶長5年(1600年)5月3日、徳川家康は会津征伐のため東国の諸大名を京都に招集した。義宣もこれに応じ、同年5月中旬、京都に到着した。同年6月6日、招集された諸大名の進撃路が発表され、義宣は仙道口を任されることとなり、水戸へ帰った[32]
慶長5年(1600年)7月24日、小山に到着した家康は、水戸にいた義宣に使者を派遣し、上杉景勝の討伐を改めて命じた。この際、家康の使者は、人質を上洛させるよう要求したが、義宣は、会津征伐は豊臣秀頼に代わって実施されるものであり、自身は秀頼に逆らう意志はないから新たな人質を出す必要はないとしてこの要求を断った。また、家康は、佐竹氏に預けられていた花房道兼を呼び出して、義宣の動向を確認した[33]
この時期の佐竹氏の動向は、東軍につくとも西軍につくともいえないものであった。
義宣は、慶長5年(1600年)7月19日ころ、上杉景勝との間で上杉方に与する旨の密約を交わしたようであり[34][35]、自軍の赤館以北への進軍を差し止めた[36]。密約は交わしたものの、佐竹氏内部に積極的に石田方に付こうとする空気が醸成されておらず、義宣は内部の意志統一がなされていない状態で密約を交わしてしまったとも指摘されている[37]
8月25日、義宣は突如として水戸城へ引き上げた。義宣は家康に対し、重臣・小貫頼久を使者として派遣し、水戸城へ帰った理由を釈明させ、また、上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、佐竹義久に率いさせた300騎を送った[38]
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、義宣は、徳川家康及び秀忠に対し、戦勝祝賀の使者を派遣した。これに対する秀忠からの礼状は届いたが、家康からの礼状があったか否かは不明である[39]
義宣は、上杉景勝が未だ伊達軍及び最上軍と対峙しているのをみて、佐竹氏に累が及ぶことを恐れ、家康に陳謝すべく伏見へ向かった。途中、神奈川で会った秀忠に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康にあって謝罪及び家名存続の懇願をした[39]
『徳川実記』によれば、徳川家康は、義宣のことを、「今の世に佐竹義宣ほどの律儀な者はみたことがない」「しかし、あまり律儀すぎても困る」と評したとされるが、これは会津征伐における義宣の態度を念頭に置いたものである[40]。(Wikipedia)

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