YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2018年01月

盛岡城跡~不来方の夕景~【北奥羽横断紀行3】

もりおか歴史文化館 で盛岡の歴史を俯瞰したあと、隣接する南部氏20万石の居城、盛岡城跡へ★
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南部鶴
南部氏の家紋は、「対い鶴に九曜」として知られる。本来は、南部光行の画像にも見られるように武田氏族らしく「割菱紋」であった。室町時代の応永十八年(1411)、南部守行は根城南部光経とともに秋田の安東鹿季と戦ったが、その陣中に二羽の鶴が飛来し、それを瑞祥として兵を進めたところ勝利をおさめることができた。戦後、これを記念して家紋を「二羽鶴」に改めたのだという。 http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_nanbu.html

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櫻山神社
江戸時代中期の寛延2年(1749年)、盛岡藩第八代・南部利視により盛岡藩初代・信直の遺徳を偲び、盛岡城内淡路丸に神殿を建立、同年9月26日、その神霊を勧請して「淡路丸大明神」と奉ったのに始まる。
盛岡藩第十一代・利敬文化9年(1812年)8月13日に「櫻山大明神」と改称。その後、利敬は同15年(1818年)4月に南部家初代・光行合祀した。(Wikipedia)

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築城時に出現した巨岩

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瓦御門

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二ノ丸から本丸へ(渡雲橋)

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本丸に残る「南部中尉銅像台座」・・・銅像は戦時金属供出

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南部利祥(なんぶ としなが、1882年明治15年)1月25日 - 1905年(明治38年)3月4日)は、日本陸軍軍人
第15代盛岡藩南部利恭の長男で南部家第42代当主にあたる。階級陸軍騎兵中尉
1904年(明治37年)、日露戦争が勃発し利祥は満州の最前線で活動した。翌1905年(明治38年)2月に中尉に進級し、近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、最前線で指揮を執ったが、3月4日井口嶺の戦いで銃弾を浴び戦死。享年23。
利祥の栄誉を後世に残すため旧盛岡藩士らによって、1908年(明治41年)、岩手公園に利祥の銅像が建立された。しかし、太平洋戦争中の1944年昭和19年)に金属供出によって撤去されたため、現在は台座が残るのみである。(Wikipedia)

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本丸南側

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本丸御二階櫓下

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本丸御三階櫓下

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本丸東側の野面積(城内最古の石垣)

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本丸御未御門の石垣

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本丸と二ノ丸を結ぶ(渡雲橋)

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はばき石垣

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笑い積

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城内で最も高い石垣・・・約14m

以上、夕暮れのため盛岡城内鑑賞を終了したのでした。

南部の歴史~もりおか歴史文化館~【北奥羽横断紀行2】

盛岡城下町の大通り商店街を抜けて、「もりおか歴史文化館」へ。岩手県の歴史の一端に触れたのでした。
(撮影可でしたので、その一部を・・・)
盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。

 甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行が、平泉奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町 (青森県)相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町三戸城を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。
鎌倉時代源頼朝に出仕して以来、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩島津家と南部家の2家のみである[† 1]
 
 天正18年(1590年)7月、「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代南部信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)が豊臣秀吉小田原征伐に参陣しそのまま奥州仕置に従軍中、秀吉から宇都宮において7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡閉伊郡鹿角郡久慈郡岩手郡志和郡、そして遠野)についての覚書の朱印状を得る[1]ことによって、豊臣大名として公認された。
さらに、翌天正19年(1591年九戸政実の乱の後本拠を、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に移したが、津軽為信に安堵されたことで失領した津軽3ヶ郡平賀郡鼻和郡田舎郡)の代替地として和賀郡稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県青森県秋田県の3県にまたがっており、蒲生氏郷浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け不来方の地を本拠とすべく、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、文禄元年(1592年)、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。(Wikipedia)

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明治元年(1868年)、当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。
なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主・南部信順薩摩藩主・島津重豪からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない。
以下日付は全て旧暦。
明治元年(1868年
9月24日 盛岡藩、新政府軍に全面降伏。
10月10日 盛岡藩の帰順嘆願が受理される。同日、新政府軍が盛岡城に入城する。
10月14日 奥羽鎮撫総督府から沢宣種が入城、戦後処置を行う。
11月11日 東征大総督府の命を受けた監察使、藤川能登(藤川三渓)が入城。南部利剛、利恭の東京への護送、楢山佐渡・*江幡五郎佐々木直作ら首謀者の捕縛といった処分を執り行う。
11月14日 奥羽鎮撫総督府の行政機関となる、久保田藩兵を中心とした鎮撫行政司庁の管理下となる。
12月7日 南部利剛は奥羽越列藩同盟に加わったかどで隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を明治政府直轄地として没収。
12月17日 南部家第41代当主・南部利恭が家名相続許されて、白石への減転封を課せられる。(白石藩
12月23日 「諸藩取締奥羽各県当分御規則」により盛岡藩領は松代藩松本藩弘前藩の管理下となる。(Wikipedia)

蝦夷の時代から南部氏の歴史および幕末の対応等々・・・感慨深いですね。


そして、この盛岡で・・・
黒田官兵衛の「合子形兜」に再会できました!
以前、姫路の特別展『特別展:軍師官兵衛』 で観たことがあります。
紆余曲折・・・「黒田騒動」の結果として、盛岡に来ました。
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これです★

黒田騒動(くろだそうどう)は、福岡藩で発生したお家騒動栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。
長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、さらに200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。
大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月、将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡南部藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。(Wikipedia)

南部のくにへ~東北・盛岡~【北奥羽横断紀行1】

先日のこと、
ずいぶん以前から心残りであった「都道府県別の未踏の地、岩手県と秋田県」へ行ってきたのです

つまり・・・
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このたび、ようやく全都道府県探訪を達成したのでした
(今後は旧国別の未踏地にも行ってみたいと想ったり)

ということで、今回の旅における見聞を少しばかり綴ってみようかなと・・・

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早朝の地元の駅から

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はるか盛岡へ

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東京駅で東北方面に乗り換え

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はやぶさ51号へ乗り込む

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「歴史を紀行する」(司馬遼太郎)より

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2時間ほどで岩手県に入りました・・・北上盆地をゆく。

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北上盆地付近。

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西には奥羽山脈。

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盛岡到着!

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気温差を感じつつ

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盛岡駅前から歩き

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北上川を渡り、盛岡城下町の中心部へ向かいます。

次回へつづく・・・

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