YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2018年05月

当選\(^o^)/大阪初日!「Tsuyoshi Nagabuchi Arena Tour2018 Don't Think Twice」


イメージ 1
イメージ 2

和倉温泉総湯~大同年間温泉湧出~【加賀能登探訪録6】

能登金剛から七尾市に戻ってきました。能登の名湯「和倉温泉」の共同浴場’総湯’に行ってみることに★
イメージ 1
和倉温泉総湯
和倉温泉(わくらおんせん)は、石川県七尾市に位置する温泉である。
開湯1200年とされる歴史の古い温泉で、傷ついた白鷺が癒しているのを漁師が発見したと伝えられる。
地名の和倉とは「湧く浦」、つまり湯の湧く浦(入り江)であり、海の中から発見された。そのため、潮が退いている時でないと湯を利用することができなかったが、近世には七尾城主の畠山氏加賀藩前田氏によって温泉が整備され、共同浴場が置かれた。(Wikipedia)

イメージ 2

イメージ 3
明治32年初代総湯

白鷺が傷をいやし・・・この話は他の温泉でもあるようですね・・・加賀藩主・前田氏が整備したという温泉で1200年の歴史を感じだのでした

能登金剛とゼロの焦点~巌門とヤセの断崖~【加賀能登探訪録5】

七尾城を下山し、七尾市街地を抜けて能登の西海岸へ向かいます。
目的地は能登金剛
以前読んだ推理小説ゼロの焦点に登場するこの場所が、とても印象深く・・・その情景を感じるためにやってきました。
まずは、能登金剛のメイン景勝地「巌門」に到着!
イメージ 1
能登金剛(のとこんごう)は、石川県能登地方羽咋郡志賀町に位置する景勝地である。
約30kmに亘って奇岩奇勝断崖が連続する海岸であり、能登半島国定公園の代表的な景観の一つ。松本清張小説ゼロの焦点』(1959年刊行)の舞台となったことで、全国にその名を知られることになった。遊覧船が運航されている。
2007年能登半島地震では一部が被害を受けた。
一帯の海岸は日本海荒波によって浸食されたもので、名称は朝鮮半島有数の景勝地、金剛山(現北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国江原道に所在)に因み、それに匹敵する景観という意味合いを持つ。見所としては巌門、関野鼻、機具岩、ヤセの断崖、碁盤島、吹上滝、増穂浦、玄徳岬などがある。歌川広重六十余州名所図会の『能登 瀧之浦』に巌門、不動の滝、鷹の巣岩を描いている。(Wikipedia)

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5


イメージ 6
巌門前

イメージ 7
波食によって形成された天然の洞門です。
イメージ 8


イメージ 9
安藤広重も描く名所図会

そして、巌門から北へ移動し「ヤセの断崖」へ。
イメージ 10
ヤセの断崖(やせのだんがい)は、石川県羽咋郡志賀町笹波にある断崖絶壁である[1]。能登金剛と呼ばれる複雑に入り組んだ海岸線奇岩・奇勝の数々が見渡せる[2]。また、松本清張小説を原作とした映画ゼロの焦点』の舞台として知られている[2][3][1]
能登半島中部の景勝地能登金剛に存在するが、海に突き出た岩場は海面からの高さが55 mあり[3]、以前は岩場の周りには、体を預けられるような手すりや木も無かった為、滑落の危険や自殺防止の観点から、2008年(平成20年)3月末まで立ち入りが禁止されていた[4][5]が、現在は、手前に柵ができ、そこから海を望む形をとっている。相当昔、断崖周辺の土地がやせていた事、断崖の上に立ち身を乗り出して崖下を覗くと身がやせる思いがする事などから「ヤセ」の名がついたと言われている[1][6]。高さ35 mの崖上からは日本海が一望できる。断崖上に沿って設置された遊歩道義経の舟隠しにも繋がっており、自然を愛でながら散策することができる。2007年3月25日に発生した能登半島地震により、名所であった崖が幅10 mにわたって崩落し、かつての面影は消えつつあるが、足がすくむ場所として観光地となっている[7][6]
能登の峻烈なイメージを読者に抱かせた松本清張推理小説を原作とした1961年公開の映画『ゼロの焦点』で、悲劇のヒロインが最後に身を投じたということでも知られている[8]。この映画の影響を受けて、最盛期には年間少なくとも18人の自殺者がいたという[9]。(Wikipedia)

イメージ 11
ヤセの断崖の上・・・柵があるため先端までは行けないのです。

断崖から徒歩数分で、義経伝説のひとつ・・・
イメージ 12
「義経の舟隠し」
源義経が奥州に逃亡する際、追っ手から逃れるために舟を隠したと言い伝えられている断崖絶壁の入り江。 義経の舟は小舟だったため、間口5m、奥行き100mほどの狭いスペースに48隻もの舟を隠すことができたのだとか。 展望できるように柵が設置されていますが、 崖の下をのぞき込むと、足がすくんでしまうほどの大迫力です。https://tadaya.net/nototsuduri/landscape/detail20/

イメージ 13
義経の舟隠しの横から崖を少し伝って降りて、ヤセの断崖を望みます。

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16
ゼロの焦点(映画) で観た広末涼子が立つヤセの断崖と、現在の形状を比較してみると、やはり能登半島沖地震で先端部が大きく崩壊したようですね。


能登七尾城跡~越山併得能州景~【加賀能登探訪録4】

七尾城史資料館から山上の駐車城へ向かいます。
イメージ 1
山麓の自動車道登山口(徒歩コースは別にあり)

イメージ 2
山上駐車場にある復元イラスト

資料館で観た七尾城CG

イメージ 3
七尾城(ななおじょう)は、石川県七尾市古城町にあった日本の城(中世の山城跡)で、国の史跡に指定されている。
七尾湾が一望できる、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上(通称「城山」)にあり、その尾根から枝分かれする行く筋もの大小の尾根にも無数のを配置した大規模な山城である。「七尾」という名は「七つの尾根」(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から由来されるという。別名として「松尾城」あるいは「末尾城」と記した資料も残る。これは城が七つの尾根のうち松尾に築かれたためである。いずれも尾根づたいに配された曲輪を連想させる。
室町三管領家の七尾畠山氏の初代当主で能登国守護畠山満慶正長年間(1428年~1429年)頃にこの地に築いたと思われるが、当時の七尾城は砦程度の規模と見られ、行政府である守護所も府中(現七尾市府中)に置かれていた。次第に拡張、増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されたという。その後、畠山義続畠山義綱の頃に能登では戦乱が続いたために増築され、最大の縄張りとなったと言われる。山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたと記録に残っている。日本五大山城のひとつに数えられるほど強固な城であった。
1576年天正4年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されるが、一年にわたって持ちこたえた。しかし、重臣同士の対立の末に擁立されていた若年の当主畠山春王丸長続連遊佐続光温井景隆らの対立を収めることができず、結果七尾城は孤立し、最終的には遊佐続光の内応によって徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、同年9月13日に開城された七尾城の戦い。この際、上杉謙信が詠んだ漢詩九月十三夜陣中作」は非常に有名である。しかし、実際にはこの詩は上杉謙信が詠んだものではないといわれている。
越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田氏によって領され、城代として菅屋長頼が入って政務にあたった後に前田利家が入るが、既に山城の時代ではなく、拠点を小丸山城に移したため、しばらく子の前田利政が城主となっていたが、のち、1589年(天正17年)廃城となった。(Wikipedia)

イメージ 4

イメージ 5
桜馬場下の石垣

イメージ 6

イメージ 7
遊佐屋敷跡を経て

イメージ 8
本丸へ

イメージ 9

イメージ 10
本丸跡

イメージ 11

イメージ 12
本丸から七尾湾を望む

イメージ 13
本丸から連郭群を巡ります。

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18
畠山氏の墓碑

イメージ 19
袴腰からの眺望・・・七尾市街

イメージ 20
枯れたことがないという「とよの水」

イメージ 21
これが籠城において必須の城内水源・・・現在も澄んだ水が湧いています。


この城は、上杉謙信の包囲を一年にわたって耐えて落城しますが、内部対立が無ければ落城しなかったのかもしれません。やはり謙信の調略が効いたのでしょうか。

能登の国へ~越中国境から能登七尾~【加賀能登探訪録3】

翌日、宿泊地の白山市美川から出発・・・北陸道の美川ICから東へ。県境を越えて、越中富山に入りました。
イメージ 2
越中の小矢部川SA・・・そして小矢部・砺波JCTから北上。

イメージ 1
能越県境PAに到着!いよいよ能登国に入ります★

イメージ 6


このPAから能登国・・・石川県七尾市です。
イメージ 7
七尾市(ななおし)は、北陸地方の西部に位置するで、石川県能登地方の中心市である。
古代の能登国能登郡の地で、能登国府国分寺が所在する能登国の中心部であった。さらに遡れば、能登国造が治めた土地である。全長52mの矢田高木森古墳(前方後円墳)や42メートルの矢田丸山古墳(円墳)を盟主とする矢田古墳群は能登臣一族に関わるとされる。対岸の能登島には延喜式内社伊夜比咩神社や全国でも珍しい高句麗式の石室をもつ須曽蝦夷穴古墳がある。
中世には鹿島郡となった。戦国時代には能登畠山氏七尾城を拠点とし、7代目当主畠山義総の代には、七尾城下に壮麗な「畠山文化」が栄え全盛期を迎える。(Wikipedia)

目的地は、この地にある国史跡で日本100名城にも選定されている七尾城。
イメージ 3
ひとまず七尾城山麓にある「七尾城史資料館」で往時を偲び・・・

イメージ 4

イメージ 5
本丸駐車場へ向かいます  次回へつづく

プロフィール

yamatetsu

記事検索
アーカイブ
  • ライブドアブログ