YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2018年06月

鳥越城跡~加賀一向一揆最後の砦~【加賀能登探訪録10】

道の駅「一向一揆の里」から数分・・・加賀一向一揆における最後の砦:鳥越城がある山上の駐車場へ向かいます。
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鳥越城(とりごえじょう)は、石川県白山市三坂町(旧鳥越村)にある中世の日本の城山城)跡。大日川を挟んだ対岸に位置する二曲城(ふとげじょう)とともに国の史跡に指定されている。史跡指定名称は「鳥越城跡 附(つけたり) 二曲城跡」。
手取川と大日川の合流点に位置する丘陵先端部を利用して築かれており、標高は主郭部で312mある。
面積は東西400m、南北1,200mにおよび、頂上を中心とした七か所の主要な郭で構成される。
郭は、本丸・二の丸・三の丸・後二の丸・後三の丸などと名付けられ、空堀や土塁を挟んで尾根筋を巧みに利用して配置されていて、それを腰郭が囲む。
白山麓山内惣庄の旗本鈴木出羽守を城主とし、天正初年(1573年)頃、織田信長による加賀一向一揆討滅の経路がはかられる中で、門徒集団である山内衆の抵抗の拠点として築城されたもの。
天正8年(1580年)、織田方の柴田勝家軍によって落城し、山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされる。その後この城は織田方の吉原次郎兵衛の管理下に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き、攻防戦が展開された。
しかし天正10年(1582年)3月1日、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた。
この城は、加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史上の意義をもつ。(Wikipedia)

駐車場から主郭部へ。
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主郭部の南側・・・中央に見えるのは道の駅「一向一揆の里」。そして道の駅の背後には二曲城があります。

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主郭部の復元された石垣は古色を帯びて、良い雰囲気になっていました。

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本丸門から本丸へ

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本丸に到着!

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天正10年まで続く一揆の抵抗は300人以上の磔で幕を閉じます・・・あらためて宗教の力を感じました。

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鳥越城本丸から東側一帯のパノラマ

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ということで、熊との格闘を回避して下山したのでした・・・

加賀一向一揆の根拠地~一向一揆歴史館~【加賀能登探訪録9】

小松市の浅井畷古戦場から移動して、白山市内の山間の地にやってきました。
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この辺り⓵は、戦国時代に加賀国を守護大名富樫氏から約100年にわたり奪取した一向一揆が最後の拠点にした地です。
まずは、この地にある一向一揆に関する資料館で、その歴史に触れます。

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白山市立鳥越一向一揆歴史館
石川県白山市出合町甲26

一向一揆(いっこういっき)とは、戦国時代浄土真宗本願寺教団一向宗[1])の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。
浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶武士農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆の事である。本願寺派に属する寺院道場を中心に、蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。
1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。本拠地とされた摂津大坂伊勢長島三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。朝倉氏に奪われた越前吉崎御坊を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたり(九頭竜川の戦い)、一揆の拡大によって武家政権の基盤を脅かされることを恐れた織田信長や細川晴元ら権力者との争いを展開するなど、戦国大名化して覇権を争ってもいる。
しかし、1580年(天正8年)、信長との抗争に敗れて顕如石山本願寺を退去した後は、本願寺の分裂騒動もあって一向一揆という名称は見られなくなる。

【主な一向一揆】
近江金森合戦1466年(文正元年))…史上初の一向一揆
越中一向一揆1480年(文明12年)-1576年(天正4年))
加賀一向一揆1488年(長享2年)-1580年(天正8年))
享禄・天文の乱(大小一揆)1531年(享禄4年))
畿内(奈良)一向一揆1532年(天文元年))…大和天文一揆
三河一向一揆1563年(永禄6年)-1564年(永禄7年))
石山合戦1570年(元亀元年)-1580年(天正8年))…史上最大の一向一揆
長島一向一揆1570年(元亀元年)-1574年(天正2年))
越前一向一揆1574年(天正2年)-1575年(天正3年))      (Wikipedia)

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六字名号(蓮如筆)/本願寺所蔵

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一向一揆歴史館に隣接する道の駅「一向一揆の里」

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なめこおろしそば・・・道の駅にて

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蕎麦をすすりながら道の駅の北側にある山・鳥越城を眺めました。これから山上にある城跡に向かいます。

浅井畷古戦場~丹羽長重VS前田利長~【加賀能登探訪録8】

白山市の手取川古戦場から移動して、隣の小松市へ。
慶長5年(1600)…美濃関ケ原の戦い本戦に対する地方戦闘のひとつ「浅井畷の戦い」の古戦場へ向かいます。
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うつろ屋軍師 より・・・この小説では丹羽長重の家老江口正吉の活躍が描かれています。

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学研:歴史群像シリーズ④関ヶ原の戦い より

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丹羽長重・・・北陸におけるこの戦いで、前田利長の関ヶ原本戦参加を阻止した形となりました。戦後、西軍に付いて改易となったものの、後に10万石を回復した珍しい存在。城郭マニアとも言われています。(10万石以上を取り戻したのは長重と立花宗茂のみ)

元亀2年(1571年)、織田氏の家臣・丹羽長秀の長男として生まれる。
主君・織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(病床にあった父の代理)に出陣した。
天正13年(1585年)、秀吉から羽柴姓の名字を与えられた[1]。 同年に父が死去し、越前国若狭国加賀国2郡123万石を相続した。ところが、同年の佐々成政越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり、さらに重臣の長束正家溝口秀勝村上頼勝らも召し上げられた。さらに天正15年(1587年)の九州征伐の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、わずかに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。これは、秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐために行った処置であるといわれている。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された[2]
その後、秀吉による小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封され、このときに従三位参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称された。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康から前田利長監視の密命を受けている。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦ったため(浅井畷の戦い)、戦後に一旦改易となる。慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では武功を挙げたため、1617年江戸幕府第2代将軍徳川秀忠御伽衆として、細川興元佐久間安政立花宗茂らと共に抜擢される(この3名は長重より年長で、武功の実績も多かった[3])。その後、元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石、元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石にそれぞれ加増移封される(なお、前棚倉藩主は、長重と共に秀忠の御伽衆である立花宗茂)。
長重の出世を知り、各地へ離散していた旧丹羽家の家臣達が、長重の元へ戻ってきた。それまで、長重は立花宗茂が居城としていた赤館城を使っていたが、新たな城の築城を決め、そこから南にある近津明神の境内に新たな城を築城することを決意した[4]。この近津明神を動かすことで、住民と悶着が起こったが、長重は別当の高松一族から高松良篤を家老として登用し、彼の主導で明神の遷宮及び城の築城を行わせた[4]。この城がのちの棚倉城となる。ところが、寛永4年(1627年)に会津藩蒲生忠郷が嫡子なくして死去し、蒲生氏は改易される。その領地に加藤嘉明と長重が移り、長重は白河10万700石となった。結局、築城中であった棚倉城は放置され、その後移ってきた内藤信照によって完成した[5]。白河に入ってから、各地へ離散した長重の旧臣達はますます集まり、蒲生家の旧臣なども召し抱えたことに加え[5]、長重は白河小峰城を築城する[6]。そのため、丹羽家の財政は逼迫したという[6]。(Wikipedia)

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小松市の市街地の中に、その古戦場があります。

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浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、慶長5年(1600年)に起こった北陸地方における前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の戦い。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、次の天下人の座をめぐって徳川家康が台頭する。これに対して、豊臣氏擁護の立場から、豊臣氏五奉行の一人である石田三成大谷吉継らが慶長5年、会津征伐に向かった徳川家康ら東軍に対して、敢然と挙兵したのである。
前田利長は豊臣氏五大老の一人で、前田利家の嫡男であったが、利家の死後、生母の芳春院(まつ)を人質として江戸に差し出していた経緯から、東軍に与した。一方、西軍の大谷吉継は前田利長の動きを封じるため、越前加賀南部における諸大名に対して勧誘工作を行なった。その結果、越前の諸大名の多くが、西軍に与した。

吉継の勧誘工作は成功であった。これにより、西軍は一戦も交えることなく、越前と加賀南部の諸大名を味方につけることに成功したのである。これに対して、前田利長は加賀以南の諸大名が全て敵となったことに危機感を抱き、加賀南部や越前を制圧すべく、2万5000人を率いて慶長5年7月26日、西軍に与した丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃した。小松城の守備兵は長重以下、およそ3000名ほどに過ぎなかったが、小松城は「北陸無双ノ城郭」(「小松軍記」より)とまで賞賛されるほどの堅城であった。このため、兵力で優位にありながら、前田軍は城を落とすことができなかった。利長はこのため、小松城にわずかな押さえの兵を残して、西軍の山口宗永が守る大聖寺城に向かった。そして8月2日に包囲攻撃を開始したのである。守る山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、2万以上の前田軍の前に遂に敗れて、山口宗永・修弘親子は自害した。

前田利長は加賀南部に攻め入るに当たって、小松城を攻め落とせず、わずかな押さえの兵を残して大聖寺に進軍していたのである。このため、撤退途中に丹羽軍が前田軍を追撃する可能性があったのである。利長はできるだけ隠密裏に撤退を行なおうとしたが、やはり2万5000人もの大軍勢の動きを隠密裏にすることなどは不可能だった。丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から出撃した。
小松城の周囲には泥沼や深田が広がっている。その中を、幾筋かの畷(縄手)が走っている。畷とは縄のように細い筋になっている道のことであるが、小松城の東方に浅井畷という畷があった。長重はこの浅井畷で兵を率いて前田軍を待ち伏せした。8月9日、前田軍が浅井畷を通ったとき、待ち伏せしていた江口正吉ら丹羽軍が攻撃した。畷のために道幅が狭く、大軍としての威力を発揮することができない。このため、前田軍は被害を受けたが、前田軍の武将・長連龍山崎長徳らの活躍もあって丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退することができたのである。なお、浅井畷古戦場は、1941年に石川県指定史跡となっている。(Wikipedia)

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この戦いで討死した前田方長家の九士の墓が木立の中に残っています。

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九士のひとり柳弥平次の墓

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嘉永年間に建てられた碑のようです。↑↓
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江戸時代末期にも、この戦いに注目していた人がいたようですね。

手取川古戦場~上杉謙信VS織田軍柴田勝家~【加賀能登探訪録7】

翌日、宿泊地の白山市内にある古戦場に向かいます。
上杉謙信ファンとしては、晩年の謙信が織田軍を撃破した場所を訪ねておかなければなりません。
この合戦によって、越前方面まで勢力範囲を広げたとされる謙信は、翌年に脳卒中で死去・・・非常に残念です。
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天正5年(1577)・・・能登七尾城 を攻略した上杉軍は、七尾城救援に向かうために加賀を北上していた柴田勝家率いる織田軍と手取川付近で激突しました。

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信が七尾城を攻めていた天正5年(1577年)、長続連の援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戦いに踏み切る。柴田勝家を総大将とする、羽柴秀吉滝川一益丹羽長秀前田利家佐々成政ら3万余の大軍は、8月に越前北ノ庄城に結集。同月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍した。しかし途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、足並みの乱れが生じていた。9月18日、勝家率いる織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら認知していなかった。
織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下。加賀国へ入って河北郡石川郡をたちまちのうちに制圧し、松任城にまで進出した。9月23日、ようやく織田軍は七尾城の陥落を知る。さらに謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始。それに対して謙信率いる上杉軍本隊の8千は23日夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した手取川の戦いなお、戦いの規模については諸説ある。(Wikipedia)

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手取川西岸にある呉竹文庫の駐車場に到着!

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ここには手取川古戦場の石碑があります。

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上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)

「はねる」「とぶ」という言葉が、勢いに乗って追撃する上杉勢と、飛ぶように逃げ帰った織田勢の様子を表しているとされる。また、この落首には信長がその場に居たかのように記されているが、実際には本合戦に加わっていないため、厳密に言えば信長ではなく、織田軍の敗北といえる。
大局的にはこの状況の中松永久秀信貴山城で反旗を翻している(信貴山城の戦い)。武田信玄の死後、劣勢に立たされていた信長包囲網の勢いは謙信の死まで一時的に盛り返した。
更に、天正5年10月に入っても越前国で上杉方についた一向一揆衆と織田方との争いがあった事が指摘されており、上杉方が加賀南部から越前までその勢力をのばしたものと推察されている[9]
矢田『上杉謙信』の記載によると、天正6年(1578)1月19日、謙信は、下総の結城晴朝からの再三の越山要請と、能登・越中・加賀と越前半国まで上杉方に属したことにより、関東に出陣するとし陣触れを行った。この陣触れは越中にまで及び、越中においては魚津城代川田長親と増山城代吉江長資から、小島職鎮をはじめとする領主・国衆層に申し届けられたとされている。
また、天正5年12月23日付けで謙信が作成した『動員名簿』(歴代古案)に加賀衆の藤丸新介(勝俊)の名前がある事、『中条家文書』において、柴田勝家による魚津城攻めの際に、若林九郎左衛門など加賀衆が魚津篭城戦で奮戦している事などから、この時期に上杉方が能登・加賀を掌握し、国人・一揆衆を被官化したことが確認できる。
一方、加賀の富塚荘を領した柴山氏が後溝口秀勝に属して越後・新発田に随従しており、加賀の国侍の中にもなお織田に従う者がいたことがわかる[10]。天正6年4月23日 『光明寺文書』に、吉川元春、小早川隆景、加賀の一向一揆に、上杉謙信と和して、信長に抗せんことを勧む、という記述があり、上杉謙信と加賀一向一揆が対立しているのは明白であり、上杉方史料などによる加賀国はおろか越前過半まで入手したとする記述には疑問が残っている。(Wikipedia)

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柴田勝家率いる織田軍は七尾城落城を知らないまま進軍を続け、梯川手取川を越えて、小松村本折村阿多賀能美郡)、富樫石川郡)を焼き払った[3]。しかし、その途中の水島(加賀郡)で、以前から勝家と不仲だった羽柴秀吉が離陣した[1]。この離陣は無届けの離脱であったため、信長の逆鱗に触れ、太田牛一は迷惑だったと述べている[3]
一方、織田軍接近を知った謙信は、直ちに七尾城を出撃、手取川付近にあった松任城(加賀郡)に入った[1]。対して、柴田勝家は全軍が手取川の渡河を終えた所で初めて七尾城落城と謙信軍の松任城入城を知り、即座に撤退を下命したが、その途上、謙信直率の上杉軍に追撃された(9月23日夜)。結果、織田軍は、鯰江貞利[5]をはじめ1000人余りの戦死傷者、さらに増水した手取川で多数の溺死者を出す大敗を喫した[4]
上杉謙信は越前丸岡城下坂井郡に進出した[6]とされるが、正味2日で水島から丸岡を経て七尾へ移動するのは実現困難かつ無意味であるため、上杉側の創作と思われる。9月26日には七尾城に帰陣し普請に着した。この時、城に登った謙信は、眺望は噂に聞いたとおりの名地で、加賀・能登・越中の扇の要にあり、要害は海と一体となっていて、島々のありさまは絵に写すことの出来ない景色であると書き記している[7][4]。次いで奥能登の松波城を陥落させ、能登をほぼ平定した[7]。『満願寺所蔵松波義親肖像賛』には、天正5年9月25日、能登珠洲郡の松波城将の松波義親、上杉謙信と戦ひて死す、という記述がある[7]
10月3日、柴田勝家らは、御幸塚の城塞に佐久間盛政、大聖寺城に柴田勝家の手勢を残し、加賀から帰還した[3]
10月25日、謙信は、能登各城に鰺坂長実・遊佐盛光連署による、十三箇条の制札を掲げた。謙信は(中略)鰺坂長実を七尾城、遊佐盛光と能登畠山氏出身で謙信の養子となり上杉一門の上条家を嗣いだ上条政繁を能登に配置し、越中増山には吉江景資を入れた。謙信は(中略)能登珠洲群内の知行を宛行い(中略)、国内の知行を把握し整理を行った[7]。(Wikipedia)

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手取川堤防上からの風景を・・・

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北には北陸本線の鉄橋が見えます。

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南には霊峰白山が、かすかに見えます。

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白山は、富山県石川県福井県岐阜県の4県にまたがる両白山地の中央に位置し、その最高峰である。山頂周辺は、成層火山となっている。30万年から40万年前から火山活動を始め1659年万治2年)の噴火が最も新しい。白山とは、最高峰の御前峰(標高2,702m)・剣ヶ峰(2,677m)・大汝峰(2,684m)の「白山三峰」を中心として、周辺の山峰の総称である。そのため厳密には、現在の県境は、石川・福井・岐阜・富山に跨る。また、別山・三ノ峰を加えて「白山五峰」という。「白山連峰」と呼ばれることもある。 北陸地方の中では標高の高い山であるため、他の山では残雪が消えた季節でも「白い山」として遠方からでも一目で判明する山である。また、白くなった白山は北陸に晩秋が訪れた象徴ともなる。(Wikipedia)

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この日の霊峰白山

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この付近は、増水した手取川に追撃されたという織田軍の多数の死傷者と溺死者があふれた場所かもしれません。

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