YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2018年07月

特別展 シルクロード新世紀 -ヒトが動き、モノが動く- Silk Road Revisited: Humans Created Eurasia

以前から・・・
・・・等々で関心があるシルクロード関連の展示があるということで、本日オリエント美術館に行ってきたのでした。
中東シリアから中央アジア、そして中国までの遺物を鑑賞★
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1991年のソ連邦崩壊以後、かつてシルクロードの舞台だったユーラシア諸地域は、未曾有の政治経済的変容を受けてきました。冷戦下、閉ざされていた東西の学術交流が進むとともに、考古学・歴史研究も新たな局面を迎えています。そして近年の諸外国による発掘調査の新発見や研究成果によって、私たちが抱いてきた古代シルクロード像が大きく変化しつつあります。

本展では、シルクロードに関わる国内の考古・美術・歴史資料を展観、先史時代から中世・近代まで数千年にわたる地域間交流の一大パノラマを通観します。あわせて、日本隊によるシルクロード調査の成果を紹介、21 世紀になってますます注目を集めるシルクロードの実像に迫ります。
http://www.orientmuseum.jp/page01.php

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2頭の馬浮彫 イラン ペルセポリス 前522~前465 MIHO MUSEUM

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帝王狩猟文皿 イラン 6~7世紀 MIHO MUSEUM 

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菩薩頭部 中国 クムトラ石窟 6~7世紀 平山郁夫シルクロード美術館

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貴人男性胸像 シリア パルミラ 2~3世紀頃 平山郁夫シルクロード美術館

韃靼の馬

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
正徳元年(1711)、徳川幕府は29年ぶりに朝鮮通信使を迎える運びとなった。対馬藩士、阿比留克人は通信使の警固を務める傍ら、ある極秘任務を請け負う。監察御史の柳成一、旅芸人のリョンハンらを含む通信使一行は、対馬上陸から大坂、名古屋を経て江戸へ。道中、柳は克人の行動を不審に思い監視を始めるが…。世界を股にかけて活躍した男たちを描く歴史巨編。第15回司馬遼太郎賞受賞作。

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
事件から十五年。朝鮮に逃げのびた克人は金次東と名乗り、朝鮮人として暮らしていた。そんな彼のもとに再び日本から密命が舞い込む。“将軍吉宗公に韃靼馬を献上せよ”。千八百年前、武帝が手に入れたという一日千里を走る伝説の馬。財政困難に陥った対馬藩を救う手立てはそれを入手する他にない。克人は再び藩のため、わずかな手掛かりをもとに汗血馬を探す旅に出る。著者渾身の歴史巨編。


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対馬藩と朝鮮通信使・・・そして韃靼の風景が印象深いです。
やはり対馬に行かなければ・・・。

タタール(Tatar)は、北アジアモンゴル高原シベリアカザフステップから東ヨーロッパリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系テュルク系ツングース系およびサモエード系フィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた[1]
日本では、江戸時代から沿海州アムール川流域を含む北アジア・中央アジアを指す呼称として「韃靼」の語が用いられたが、領域や実態について明確な定義は存在していなかった[10]。中国や朝鮮では、女真・満州を含めて北方の諸民族のことを「韃虜」「韃子」などと蔑称することがあった[要出典]。1917年のロシア革命によって国を追われたタタール人たちが日本に逃れており、彼らは日本に最初に入ってきたムスリムの集団とされる。彼らは日本にイスラム教を持ち込んだ最初期の集団であり、東京などに回教礼拝堂(現在の東京ジャーミイ)などを作った[11]
現代の中国において少数民族の一つとして認定されているタタール族は、18世紀以降にロシアから移住したタタール人の子孫であり、上述の韃靼とは無関係である。 (Wikipedia)

企画展:世界を驚かせた日本人の地図づくり~広島県立歴史博物館~

昨日(7月21日)・・・
先月の新聞ニュース最古級の日本地図 14世紀中ごろ 広島の博物館が確認を確認して以来、気になっていた最古の日本地図・・・ようやく鑑賞する日がやってきたのでした

夜勤明け長時間残業意識朦朧不眠の中、「平成30年7月豪雨」の影響で変更ダイヤとなった伯備線と山陽本線を乗り継ぎ福山駅へ。酷暑の駅前から、なんとか広島県立博物館にたどり着きました

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当館寄託の日本最大級の古地図コレクション「守屋壽コレクション」の第3回目の展示会。今回は,新発見の伊能忠敬の日本地図など幕府の日本地図を中心に,地図づくりの進歩の様子を,コレクションに新たに加わった資料を交えて紹介します。併せて,県内には他に例がない安芸国絵図や備後国絵図のほか,広島城・福山城下の古地図も紹介し,その上で,江戸時代の地図づくりが,時代を生きる人々に利用され,また,人々の暮らしを支えていた様子を紹介します。https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/rekishih/2018summer-chizu.html

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今回は講演会にも参加できます

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企画展示では中世の行基図から近世の伊能図まで。そして、講演会では江戸時代の地図の歴史を感じ取ることが出来ました

これはもう、この資料を手元に・・・ということで、企画展の「図録」を購入。本日はそれを鑑賞しながら過ごしています

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「日本扶桑国之図」 室町時代

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日本扶桑国之図(西日本)

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日本扶桑国之図(国別の郡表記)

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松浦静山識日本輿地図(部分) 江戸時代

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大坂冬の陣図(部分) 江戸時代

「西日本豪雨(平成30年7月豪雨)」

7月7日・・・今晩の夜勤・・・なんとか休みになりました。
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その後・・・一週間たち・・・途中経過・・・印象的な災害となりました。
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平成30年7月豪雨(へいせい30ねん7がつごうう)とは、2018年平成30年)6月28日から7月8日頃にかけて[注 1]西日本を中心に北海道中部地方など全国的に広い範囲で記録された台風7号および梅雨前線等の影響による集中豪雨[2]。同年7月9日気象庁が命名した[2][3]

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7月5日から7日までの雨量レーダー画像

6月29日に発生した台風7号は太平洋高気圧の外側を回り込むように7月4日にかけて東シナ海を北上し、対馬海峡付近で進路を北東に変えて日本海上に抜けた[1]が、太平洋高気圧の影響で梅雨前線が7月2日から5日頃に北海道に停滞し、広範囲で雨量が7月の月降水量の平年値を超えるなどし[4]、北海道では堤防の決壊や内水氾濫に伴う床上・床下浸水、崖崩れ等の被害が出た[5][6]
その後、太平洋高気圧が南東に移動したことで、北海道付近にあった梅雨前線が南下。九州地方では台風の影響による雨が7月3日頃から降り続いていた[7]が、特に7月5日から、西日本から東日本に停滞した梅雨前線に向かって台風7号がもたらした暖かく湿った空気が流れ込むことで梅雨前線が活発化[8]。東シナ海からの湿った南東風と、太平洋高気圧の縁を回る湿った南風が西日本付近で合流し、極めて大量の水蒸気がもたらされた[9]。梅雨前線は9日に北上して活動を弱めるまで日本上空に停滞。西日本から東日本にかけて広い範囲で記録的な大雨となった[10]
7月6日17時10分に長崎、福岡、佐賀の3県に大雨特別警報が発表され、続いて19時40分に広島、岡山、鳥取、22時50分に京都、兵庫と、1日で8府県に大雨特別警報が発表された[11][12]。さらに翌7日12時50分には岐阜県[12][13]、翌8日5時50分には高知、愛媛の2県にも大雨特別警報が発表され[14]、最終的に運用を開始して以来最多となる計11府県で大雨特別警報が発表された。
この豪雨により、西日本を中心に多くの地域で河川の氾濫や浸水害、土砂災害が発生し、死者数が200人を超える[15]甚大な災害となった。(Wikipedia 2018/7/22)


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