先週のこと・・・広島県の呉に行ってきました★
西日本豪雨の影響でJR呉線が一部不通ということなので、今回は探索車にて遠征

数年前から東広島呉道路が開通しているので快適なドライブで到着しました!
戦艦入門 動く大要塞徹底研究(原題:連合艦隊戦艦) の読了後で感慨深い。

主目的は大和ミュージアムの企画展 戦艦「長門」と日本海軍!


【写真】戦艦長門:屈曲煙突 一次改装後
建造当初は煙突の排煙処理が問題となり、平賀譲の提案で第一煙突にカバーを付けたがあまり効果はなく、藤本喜久雄造艦大佐によって1924年(大正13年)に陸奥と共に屈曲煙突を採用した[21]。この姿が当時の国民に親しまれ、一番印象に残る姿となったといわれる[22]。(Wikipedia)

【写真】戦艦長門:昭和17年8月 柱島泊地
戦艦「長門」は、日本海軍の軍備拡張計画「八八艦隊」の一番艦として、大正9(1920)年、呉海軍工廠で建造されました。世界初の41センチ砲を搭載し、高速で航行することが可能な「長門」は、世界の海軍の歴史に大きな影響をあたえます。
「長門」建造時、戦艦は海軍の主力と考えられていました。連合艦隊の旗艦を長くつとめた「長門」は、日本海軍のシンボルとなり、国民から「日本の誇り」として広く親しまれます。
昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦時、作戦の指揮をとったのは、連合艦隊旗艦「長門」の司令部でした。旗艦の任を「大和」にゆずった「長門」は、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦などに参加。損傷を受けながらも航行可能な唯一の戦艦として終戦を迎えます。戦後、アメリカ軍に接収された「長門」は、昭和21(1946)年、ビキニ環礁で行われた核実験の標的となり沈没しました。
日本海軍にとって、「長門」は、明治以降培ってきた建艦技術の集大成であり、海軍力の象徴でした。「長門」は日本海軍を代表する存在として大正・昭和期の軍拡・軍縮・戦争の時代をあゆみます。「長門」の生涯について知ることは、日本海軍の歴史を理解する上で重要といえるでしょう。
本企画展では、軍艦旗や図面、「長官公室」部分再現等の展示により、「長門」の生涯をたどります。また、かるたや新聞等の資料から当時の人びとが海軍や戦艦とどのように向き合っていたかを考えます。https://yamato-museum.com/info/%e7%ac%ac26%e5%9b%9e%e4%bc%81%e7%94%bb%e5%b1%95%e3%80%80%e6%88%a6%e8%89%a6%e3%80%8c%e9%95%b7%e9%96%80%e3%80%8d%e3%81%a8%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%b5%b7%e8%bb%8d/

【写真】戦艦長門:昭和10年 大規模改装公試中


戦艦長門: 進水紀念スタンプ(復刻)
長門は1917年(大正6年)8月28日に八八艦隊計画の第一号艦として広島県の呉海軍工廠にて起工[13]、1919年(大正8年)11月9日に進水する[14]。1920年(大正9年)11月25日、竣工した[15]。甲板の木材は台湾阿里山の檜が使用された[16]。建造費は当時の価格で4,390万円に上った。東京の丸の内ビルディング(旧)が七つ建造できる金額であったという[17]。艦の本当の全長216mや最大速力26ノットは隠され、対外的には660呎(201m)、23ノットと公表している[18]。ワシントン海軍軍縮条約によって41cm(16in)主砲搭載・艦型35000トン以上の大型戦艦の建造が制限される海軍休日が始まると[19]、長門と姉妹艦の陸奥、イギリスのネルソンとロドニー、アメリカ合衆国のコロラド、メリーランド、ウェストバージニアを指して世界のビッグ7(世界七大戦艦)と呼ばれた[要出典][20]。 (Wikipedia)

【写真】戦艦長門: 新造時

【写真】戦艦長門:昭和16年10月 煙幕展開訓練中

【写真】戦艦長門:昭和19年10月21日 ブルネイ泊地

【展示室内】長官公室の部分再現 (後方には先任旗・軍艦旗・少将旗)

今回は常設展も鑑賞しました★

大和後方から

大和艦載機、等々・・・
そして・・・
長門型戦艦の主砲41センチ砲弾
長門の主砲といえば、
豊砲台跡~対馬要塞最大射程:40センチ加農砲~【対馬国紀行13】 を連想しますが、
砲塔四五口径四〇糎加農砲 と、下記の四十五口径三年式四十一糎砲の砲身・砲弾は同じものという認識でよいのでしょうか??

企画展図録の解説より

長門型戦艦の41センチ主砲弾(九一式徹甲弾)

屋外展示:長門型戦艦【陸奥】の41センチ主砲身

屋外展示:長門型戦艦【陸奥】の41センチ主砲身

大和ミュージアム鑑賞後、呉の街中を少し歩きました。

れんが通りを経て「自由軒」へ 広島県呉市中通り3-7-15

気になっていた大和のオムライスを注文!

秘伝のデミグラスソース

紅茶とともに至福のひと時でした\(^o^)/

ということで、微々たる支援を含めて広島・呉の産品を購入。以前から気になっていた「間宮ようかん」も(*´▽`*)


間宮は純商船式の船体に各種の倉庫・食料貯蔵および製造設備を持ち、平時には艦隊への、戦時には戦地への食料補給が期待された[13]。
艦内の最新式の巨大な冷蔵庫・冷凍庫設備で肉、魚、野菜など18,000人の3週間分の食料を貯蔵できた。寄港先現地での調達も行い、屠殺製肉設備もあったため、牛馬を生きたまま積み込んだのちに食肉加工し、保存しておくことも可能だった[9]。またパンなどの一般的な食料だけではなく、アイスクリーム、ラムネ、最中、饅頭などの嗜好品からこんにゃく、豆腐、油揚げ、麩などの日本固有の食品まで多くの加工食品を製造できた[13]。これらの製造のために間宮の艦内には部屋ごとに分かれたキッチンが多数あり、それぞれに腕の立つ専門職人が乗船し、軍属として働いていた[13]。軍属としての職人らの待遇は良かったとされている。大量の食料を扱うことから衛生面においても特別な配慮がなされており、他艦艇においては航海中は入浴・洗濯とも数日に1回、さらに風呂の湯は海水を用いるなど真水の節約に努めていたが、間宮では風呂でも洗濯でも真水をふんだんに用いることができた。
間宮が入港すると新鮮な食料が各艦に補給されるため、艦隊の酒保として非常に人気が高く、帝国海軍の中では最も有名な艦だったという[13]。艦内で製造される羊羹は「間宮羊羹」として人気が高く[13]、老舗羊羹店が海軍に納入した羊羹をさばくのに苦労した、などの話が伝わる。(Wikipedia)