YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2019年03月

蒙古襲来殺人旅情

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“元寇の謎”新説に隠された殺意。歴史学者が謎の失踪直後、論敵が惨殺された…小早川警視正の名推理! http://www.bookshop-ps.com/bsp/bsp_detail?isbn=4396326068


希少本のため、状態の悪い古書を購入・・・・(ノД`)・゜・。
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元寇における文永の役で神風はあったのか?↓・・・という問題が絡み、事件が展開します。

元軍は戦況を優位に進めた後、陸を捨てて船に引き揚げて一夜を明かそうとしたその夜に暴風雨を受けて日本側が勝利したという言説が教科書等に記載されている[214]。通常、上陸作戦を決行した場合、まず橋頭堡を確保しなければならず、戦況を優位に進めながら陸地を放棄して、再び上陸作戦を決行するなどは戦術的に有り得ないとされる[215]。また、元側の史料『高麗史』の記載によると、元軍は日本軍との戦闘で苦戦を強いられたため軍議により撤退を決定し、日本からの撤退途上で暴風雨に遭遇したとなっている[174]。ただ、この撤退途上に元軍が遭遇した暴風雨については、気象学的には11月下旬には台風の渡来はなく、あったとしても単なる強風であったろう[216]
元軍が苦戦し撤退した様子は『高麗史』の記載の他、日本側の史料でも同様の記載が確認できる。文永の役当時の鎮西からもたらされた飛脚の報告が載っている日本側の史料『帝王編年記』によれば「去月(十月)二十日、蒙古と武士が合戦し、賊船一艘を取り、この賊船を留める。志賀島において、この賊船を押し留めて、その他の蒙古軍を追い返した」[209]と報じたとあり、同じく飛脚の報が載っている『五檀法日記』においても「去月(十月)十九日と二十日に合戦があり、二十日に蒙古軍兵船は退散した」[210]とあり、交戦した武士らが中央政権に対して軍事的に元軍を撃退したことを報告している。また、他の史料と日にちに差異はあるが『関東評定衆伝』でも「(文永十一年)十月五日、蒙古異賊が対馬に攻め寄せ来着。少弐資能代官・藤馬允(宗資国)を討つ。同24日、大宰府に攻め寄せ来たり官軍(日本軍)と合戦し、異賊(元軍)は敗北した」[217]と明確に日本軍の勝利と元軍の敗北が確認できる。 (Wikipedia)

蒙古来る

海音寺潮五郎の希少本?であるところの小説・・・「蒙古来る」・・・ついに読了★
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主人公のひとり「河野通有」の活躍が魅力的に活写されていました!

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弘安の役で負傷した河野通有を見舞う竹崎季長【蒙古襲来絵詞】より

河野 通有(こうの みちあり)は鎌倉時代中期の伊予国久米郡石井郷(現在の愛媛県松山市)の武将。鎌倉幕府御家人河野氏当主。元寇の役で活躍した伊予水軍の将。
元寇に際し、文永の役の後に再度の襲来に備えて北九州に出陣した。
弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。
この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も通有に一目置いた。博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。これに対して、日本軍は元軍を攻撃する。
通有は志賀島の戦いにおいて先に惣領の地位を争っていた伯父の通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖とも呼ばれる。『予章記』によれば肥後国下久具村(現熊本県宇城市)も恩賞地として賜ったという。
河野氏の系譜では応長元年(1311年)に死去したとされるが、それから10年経た元応3年(元亨元年・1321年)に六波羅探題である大仏維貞から土居彦九郎とともに伊予の海上警備を命じられている「河野対馬前司」を通有とみる説があり、この頃にはまだ健在であった可能性が高い[3]。また、通有の家督も『蒙古襲来絵詞』にも登場する嫡男の八郎通忠ではなく弟の九郎通盛に継承しているだけでなく、通盛の生母である河野通久の娘(系譜類では字を安古・法名を道忍と伝え、現存の古文書では法名を「れうゑん」と伝える女性。通有にとっては叔母でもある)が強引に家督継承を図った痕跡が見られる(『築山本河野家譜』には彼女が一門の前で通盛を後継者とする通有の遺言を読み上げて通忠の妨害を退けたとし、現存する元亨4年(1324年)作成の彼女の譲状でも他の息子に与えられた通有の遺領の悔返を行って通盛に与えている)ことから、元亨年間に通有が没し、その後通久の娘が未亡人の立場を利用して通盛を後継者に立て、それを巡って河野氏内部で内紛が生じたと推測する説もある[4]。 (wikipedia)

蒙古襲来絵詞

博多訪問に向けて蒙古襲来絵詞を読了★
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蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)は、筆者不明の全2巻の絵巻物竹崎季長絵詞蒙古襲来絵巻[1]とも。鎌倉時代後期の作で、肥後国御家人竹崎季長元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっており、東京都千代田区皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に保管されている。(Wikipedia)

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鳥飼潟の戦い:文永の役において、が飛び交い、てつはうが炸裂する中をモンゴル帝国高麗王国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵

竹崎家衰退後、大矢野家に伝えられた。季長を中心に元寇での実戦の様子が描かれており、元側の軽装兵や軍船、使用した「てつはう」などが描かれた唯一の画像史料として知られ、歴史の教科書にはまず載っている。
ストーリーは、前巻は季長が8名の郎党を率いて文永の役に出陣して戦い、その後、一番駆けの武功に対する恩賞が出ないことを不服として鎌倉へ赴き、安達泰盛と直談判を行って恩賞地と馬を与えられる様子が描かれ、後巻では、海東郷の地頭として出世を果たした季長が弘安の役に出陣して戦う様子が描かれており、末尾には家訓とともに「永仁元年二月」(1293年)の日付が記されている(「永仁」への改元は同年8月)。
なお、絵巻物自体は中世のものと考えられているが、蒙古兵と日本騎馬武者の描写の違いなどから、後世の加筆、改竄、または編纂があったとする説も提唱されている。特に、季長と対峙する3人の蒙古兵(上の画像)は同じ絵巻の他の蒙古兵と装備や絵のタッチが明らかに異なり、またこの部分の紙が上下にずれて貼り合せてあるのに絵はずれておらず、近世に加筆されたと考えられており、九州国立博物館の文化交流展示室ではこの説が紹介されている。一方、後世の加筆や改竄ではなく、季長自身の指示による追加・手直しとの見方もある(大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』)。 (Wikipedia)

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御厨海上合戦:弘安の役

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奮戦する竹崎季長:弘安の役

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奮戦する元軍兵士:弘安の役

刺青された男

オンサヤコーヒー表町にて読書★
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耐え難い灼熱の外洋でも、絶対にシャツを脱がない大男がいた。凄じい力の持ち主で、なぜか外国船ばかりに出没する無気味な船乗りである。他人に見せられない刺青をしているという水夫仲間の伝説的な噂は本当なのかもしれない。
 ある日、私が船医をしている船で、船員同士の傷害事件が起きた。被害者は日頃、仲間からゲジゲジのように嫌われている腕自慢の水夫である。片目をつぶされ、肋骨をヘシ折られた瀕死の状態で運ばれてきた。喧嘩の相手はなんと、あの謎の船乗りだった。彼はいつの間にかボートを盗み、船から姿を消していた。      表題作ほか九篇を収めた傑作短編集。

岡山の狛犬~特別陳列:岡山県立博物館~

岡山県立博物館で狛犬の陳列をしているとのことで、鑑賞してきました★
特に津山市にある高野神社蔵の平安時代の獅子と狛犬【重要文化財】は印象深いものです!
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