YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2019年10月

承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱

以前から気になる存在、後鳥羽上皇・・・あらためて承久の乱の経緯を読了★
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【内容情報】(出版社より)
後鳥羽上皇は無謀にも鎌倉幕府打倒を企て、返り討ちにあったのか? 公武関係を劇的に変え、中世社会のあり方を決めた大乱を描く。

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
一二一九年、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺された。朝廷との協調に努めた実朝の死により公武関係は動揺。二年後、承久の乱が勃発する。朝廷に君臨する後鳥羽上皇が、執権北条義時を討つべく兵を挙げたのだ。だが、義時の嫡男泰時率いる幕府の大軍は京都へ攻め上り、朝廷方の軍勢を圧倒。後鳥羽ら三上皇は流罪となり、六波羅探題が設置された。公武の力関係を劇的に変え、中世社会のあり方を決定づけた大事件を読み解く。

【目次】(「BOOK」データベースより)
序章 中世の幕開き/第1章 後鳥羽の朝廷/第2章 実朝の幕府/第3章 乱への道程/第4章 承久の乱勃発/第5章 大乱決着/第6章 乱後の世界/終章 帝王たちと承久の乱

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帰路~郷ノ浦から博多へ~【壱岐國紀行21】

翌日、とうとう壱岐を離れます(ノД`)・゜・。

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玄界灘を南下

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博多の街が見えてきました。

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当日開催されていた「博多どんたく」を少々鑑賞・・・博多駅前にて


以上、【壱岐國紀行】終了となります。ありがとうございましたm(__)m

黒崎砲台跡~壱岐要塞:40センチ加農砲~【壱岐國紀行20】

勝本港から南下して、壱岐の名勝:猿岩へ。
そして、猿岩に近接する近代遺産:壱岐要塞を構成する黒崎砲台を探訪。

昨年訪ねた対馬要塞における豊砲台と同様、40センチ砲を装備した砲台です。

参考】豊砲台跡~対馬要塞最大射程:40センチ加農砲~【対馬国紀行13】
           企画展 戦艦「長門」と日本海軍(大和ミュージアム)&呉散歩

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名勝:猿岩
黒崎半島のさらに先端にある高さ45mの海蝕崖の玄武岩。そっぽを向いた猿にそっくりで、気紛れな自然の造形に驚かされる。壱岐島誕生の神話による8本の柱のひとつである。
駐車場脇には壱岐市のお土産が揃う「お猿のかご屋」がある。
http://www.ikikankou.com/wp/?p=269

壱岐探訪を前にして「歴史群像2019年2月号」に掲載された’壱岐要塞の全貌’を読了。
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壱岐要塞(いきようさい)とは、対馬要塞と共に対馬海峡の防備のため設置された大日本帝国陸軍要塞である。

対馬海峡、壱岐海峡の防備のため1924年10月から工事が開始され、1938年12月までに全ての砲台が竣工した。

的山大島砲台は戦艦鹿島」の主砲塔(陸軍での名称は砲塔四五口径三〇糎加農砲)[1]を、黒崎砲台は未成巡洋戦艦赤城」(空母「赤城」に改装)の主砲塔(同、砲塔四五口径四〇糎加農[2]を設置した砲塔砲台であり、水上艦船への対処を目的としていた。また、おもに潜水艦の浮上襲撃への対処を目的として名烏島・小呂島・渡良大島の各砲台には四五式十五糎加農砲[3]、生月砲台には九六式十五糎加農砲[4]設置された。

壱岐島渡良大島地区には、陸軍の海岸要塞としては唯一の水中聴音機を有する水中観測所が設置されていた[5]。 (Wikipedia)


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黒崎砲台入口

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砲弾レプリカ 左40センチ砲 右46センチ砲

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砲塔下部

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出口へ・・・売店「お猿のかご屋」横から砲塔上部へ

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砲塔部を上から

売店「お猿のかご屋」で砲台関連古写真を数点観ることができます。
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ついに壱岐巡りを終えて、郷ノ浦へ戻り・・・レンタカー返却。

聖母宮~神功皇后馬蹄石・文永元軍上陸地~【壱岐國紀行19】

曾良の墓から移動して、
神功皇后の馬蹄石および、文永の役における元軍上陸地。そして神功皇后を祀る「聖母宮」へ。

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加藤清正と鍋島直茂寄進の西門

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加藤清正と鍋島直茂寄進の南門

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聖母宮(しょうもぐう)は、長崎県壱岐市勝本町勝本浦に鎮座する神社

当社の神域内に、三韓征伐の際の神功皇后の馬の蹄の跡が残っているとされる馬蹄石がある。ここは元寇の文永の役の元軍上陸地でもある。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正から正門の奉納したものであり、神社周囲の石垣も当時風待ち時に配下に積ませたものであり、朝鮮半島と風に縁のある神社である。 (Wikipedia)

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文化年間の狛犬

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勝本港から南下・・・・・・なんとかランチを調達できました。
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続いて、いよいよ壱岐の近代遺産:黒崎砲台へ。

河合曾良の墓~旅の途上:諸国巡見使随員~【壱岐國紀行18】

勝本城山麓の能満寺にある河合曾良の墓へ。

幕府の巡見使随員となり、九州を廻り対馬に渡る途上、壱岐勝本で死去しました。

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河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日1710年6月18日)頃)は、江戸時代中期の遊俳。没年月日については、巡見使随員の日誌に無いため、不正確なものとなっている。

松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。蕉門十哲の一人とされる[1]  。

信濃国高島城下の下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる。幼名は与左衛門。その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る。12歳の時、養父母が亡くなったため伊勢国長島の住職・深泉良成の元に引き取られる。

寛文8年(1668年)頃より長島藩松平康尚に仕え、河合惣五郎を名乗る。天和元年(1681年)頃に致仕。江戸の吉川惟足吉川神道を学ぶ。貞享年間に松尾芭蕉に入門し、同4年(1687年)の『鹿島紀行』、元禄2年(1689年)からの『奥の細道』の旅に随行し、「曾良旅日記」(天理大学附属天理図書館所蔵、重要文化財)を残した。

将軍徳川家宣の命により、宝永6年(1709年)に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡見の途上に病没した。享年62。戒名は賢翁宗臣居士。墓所は壱岐島の能満寺。元文5年(1740年)、没後30年を経て故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。

平成6年(1994年5月24日に旧勝本町と諏訪市が河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で友好都市提携を結び、旧勝本町が旧壱岐郡3町と合併(平成の大合併)後も壱岐市に受け継がれた。 (Wikipedia)

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墓の背後に見えるのは、目的地であった対馬方面の海。

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