YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2019年12月

武田信虎 覆される「悪逆無道」説(中世武士選書)

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
甲斐統一・甲府開府など、数々の功績を誇る名将はなぜ信玄に追放されたのか!?信玄の背後に隠れた知られざる実像を、武田氏研究の第一人者が活写する。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1部 戦国争乱の幕開けと信虎(信虎の家族たち/信虎誕生前夜)/第2部 甲斐統一戦と信虎(甲斐統一を目指す/戦国都市甲府の建設/念願の甲斐統一)/第3部 新機軸を打ち出した外交と内政(反今川から親今川へ/領国支配と家臣団編成)/第4部 信虎追放とその後の人生(信濃侵攻の開始/訪れた絶頂期とクーデター/長い余生と最後の戦い)

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先日・・・『武田信虎とその周辺に迫る』の導入として甲斐・甲府を訪ねました。
2019年は信虎が甲府を開府して500年ということで、数々のイベントがあったようです。
(撮影日2019年12月21日)
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甲府駅北口の信虎像

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参考動画:こうふ開府500年記念番組【甲府を作った男・武田信虎 かけがえのない甲斐国】UTYテレビ山梨  

完全版 本能寺の変 431年目の真実

9784309416298

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
名門・土岐明智氏の行く末に危機感を抱いていた光秀。絶望する彼の前に、天才・信長自身が張りめぐらせた策謀が、千載一遇のチャンスを与えた!史上空前のクーデターが起きる直前、水面下で何が起きていたのか。そしてすべてを操る男の存在とは?これまでの定説で意図的に隠されていた驚愕の真実が明らかになる!徹底した科学的アプローチで、歴史に埋もれた真実に迫る、壮大な歴史捜査ドキュメント!

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1部 作り上げられた定説(誰の手で定説は作られたか/定説とは異なる光秀の経歴 ほか)/第2部 謀反を決意した真の動機(土岐氏再興の悲願/盟友・長宗我部の危機 ほか)/第3部 解明された謀反の全貌(本能寺の変はこう仕組まれた/織田信長の企て ほか)/第4部 叶わなかった二つの祈願(祈願「時は今あめが下なる五月かな」/祈願「国々は猶のどかなるとき」)

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
明智憲三郎(アケチケンザブロウ)
1947年生まれ。明智残党狩りの手を逃れた光秀の子・於寉丸の子孫と伝わる。慶應義塾大学大学院工学研究科修士課程修了後、大手電機メーカーに入社。一貫して情報システム分野で活躍。執筆・講演活動を展開(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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真偽はともかく、「歴史捜査」に感銘を受けました★

明智光秀と本能寺の変

9784480072412

【内容情報】(出版社より)
下克上の時代。なぜ明智光秀は織田信長を討ったのか。私怨だったのか、朝廷か足利義昭か、徳川家康の陰謀だったか……戦国ミステリーを明智の人生で読み解く。

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
なぜ明智光秀は本能寺で織田信長を討ったのか。下克上の時代とはいえ、戦国の覇王であり主君への謀叛の背景には謎が多い。光秀の経歴も秘密めいている。そのためさまざまな憶測がされ、信長への私怨説、朝廷か足利義昭か、はては徳川家康による陰謀説などが語られてきた。名門・土岐明智氏を自称しながら足軽衆としてキャリアをスタート。主君を変えながら武功を重ねて頭角を現わした「知将」の人生をたどりながら、明智光秀という戦国ミステリーの主人公を読み解く!

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 本能寺の変の勃発/第2章 光秀の出自と前半生/第3章 京都における光秀/第4章 信長と義昭の決裂/第5章 「鞆幕府」の成立と光秀の動向/第6章 光秀の大躍進/第7章 本能寺の変「陰謀説」に根拠はあるか?/第8章 光秀の最期

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
渡邊大門(ワタナベダイモン)
歴史学者。1967年神奈川県生まれ。90年3月、関西学院大学文学部史学科日本史学専攻卒業。2008年3月、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。博士(文学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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時節柄、明智光秀関連の書籍を読んでいこうかと・・・やはり中世はいいですね★

大嘗宮一般参観~令和元年秋季皇居乾通り一般公開~【東京横浜LIVE散歩5】

生麦駅から移動して品川経由で東京駅へ。
11月に大嘗祭が行われた「大嘗宮」が皇居の東御苑で期間限定一般公開されるということで、東京来訪の機会に行ってきたのでした。



大嘗祭(だいじょうさい、おおにえまつり、おおなめまつり)は、日本天皇皇位継承に際して行う宮中祭祀であり、皇室行事

新天皇が即位(現代では国事行為となる即位の礼の各儀式が終了)した後に新穀を神々に供え、自身もそれを食する。その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念することである[1]

古くは「おほにへまつり」「おほなめまつり」とも訓じた[2]が、現代においては「だいじょうさい」と音読みする[3]
一般に、毎年
11月23日国民の祝日勤労感謝の日)に行われる宮中祭祀の新嘗祭(にいなめさい)と同じく、収穫感謝の秋祭りと解されている。実際、祭儀の次第にも共通点があり、大嘗祭が行われる年には新嘗祭は斎行されない。また、大宝律令以前においては「大嘗祭」と「新嘗祭」は同一祭儀の別名であった。(Wikipedia)

東京駅から江戸城坂下門へ向かいます。
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大嘗祭を行う祭祀の場所を大嘗宮という。これは大嘗祭のたびごとに造営され、斎行された後は破却、奉焼されてきたが、令和の大嘗祭から初めて資材が再利用されることになった。

古来、造営場所は朝堂院の前庭であった。祭の約10日前に材木と諸材料と併せて朝堂院の前庭に運び[19]、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えで5日間で全ての殿舎を造営し、祭の3日前に竣工していた[20]。後に大嘗宮の規模は大正、昭和の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるため[21]といった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数カ月かけて造営している。令和の大嘗宮は清水建設が9億5700万円で一般競争入札で落札し受注した。

童女が火を鑽出して国司郡司の子弟の持つ松明に移し、その8人童男童女が松明を掲げて斎場に立ち、工人が東西214(約65メートル)、南北15丈(約46メートル)を測って宮地とし、之を中に分け東に悠紀院、西に主基院とする[22]。そして両国の童女が木綿をつけたを捧げ、両院が立つ四隅と門の場所の柱の穴に立て「斎鍬」(いみくわ)で8度穿つ[23]。東西に悠紀殿・主基殿、北に廻立殿を設け[24]、それぞれの正殿は黒木造 (皮つき柱) 掘立柱切妻造妻入り、青草茅葺きの屋根[注釈 2]、8本の鰹木と千木[25]むしろが張られた[26]天井を有する[27]。外を柴垣で囲み、四方に小門をつける[24]。使用された木材は長野県カラマツ(柱)、北海道ヤチダモ(神門)、静岡県スギ(外壁)のほか、奈良県産、京都府産など約550立方メートル[28]。(Wikipedia)

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セキュリティーチェックを受けて群衆の行列の中へ・・・

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坂下門

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乾通りへ

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初めて見る本丸富士見多門

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西桔橋から本丸へ

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本丸に入り石室の造形に見入る
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ここでまた大嘗宮に向かう行列に参加

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大嘗宮までの長い道程

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ついに到達!

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古代から続く皇室の継承文化に触れることができました。


ということで、
以上、【東京横浜LIVE散歩】終了です★

生麦事件碑~リチャードソン落命の地~【東京横浜LIVE散歩4】

横浜中華街から移動して、京急で生麦駅へ。
時は幕末、文久二年の出来事・・・生麦事件ゆかりの事件現場に向かいます。

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生麦駅から歩いて

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かつての東海道を進みます。

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キリン工場前の道沿い

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歩道には風情ある表示

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頭上には自動車専用道路が重なり・・・現在も主要街道です。

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生麦事件碑の手前には、ゆかりの井戸

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生麦事件碑に到着しました。

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参考動画・・・大河ドラマ「飛ぶが如く」より

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事件当時の生麦村。東海道にそった集落の神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)近辺と見られている。

生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期(幕末)の文久2年8月21日1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。

 尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。

事件の石碑は、京急本線生麦駅近くに残っており[注釈 1]、1988年(昭和63年)11月1日に市の地域史跡に登録されている[1]

文久2年(1862年)、薩摩藩島津茂久(忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いたのち(文久の改革も参照)、勅使大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を出発した。率いた軍勢は400人あまりであった[2]

行列が生麦村に差しかかった折り、4人の騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとも、観光で川崎大師に向かっていたともいわれる。

生麦村住人の届け出書[3]神奈川奉行所の役人の覚書[4]、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記[5]を突き合わせると、ほぼ以下のような経緯を辿った。

行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が斬りかかった。

4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは流血しつつも馬を飛ばし、神奈川にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込み助けを求め、ヘボン博士の手当を受けた。

『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一撃をあびせたのは奈良原喜左衛門[注釈 3]であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬った(のち久木村は同事件の回顧談を鹿児島新報紙上に詳細に語っている)。落馬後、瀕死のリチャードソンに「今、楽にしてやっど」と介錯のつもりでとどめを刺したのは海江田信義であったという[注釈 4]。なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。(Wikipedia)

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