ひさしぶりの京都純喫茶巡りです(=^・^=)

喫茶ソワレ
京都府京都市下京区 西木屋町通四条上る真町95
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史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~
貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。
鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16年(1484年)、境内に末社斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(明治5年に宮中に遷座した[1])を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。
江戸時代に入ると社領は590石であったが、寛永5年(1665年)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。 (Wikipedia)
この日、大元宮が公開されていました。
正式には「斎場所大元宮」(さいじょうしょだいげんぐう)という吉田神社の末社である。現代ではいくつかある末社のうちの一つの扱いであるが、明治に入るまでは吉田神社の信仰の中心であった。
吉田兼倶は文明年間に森羅万象の起源であり、また宇宙の根元神である虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る吉田神道(唯一神道)を考え、大成すると、室町にあった自邸に虚無太元尊神を祀る社・大元宮を建て、その祭祀を行い始めた。そして、兼倶はいよいよ吉田神道を目に見える形にして一般に広めようとし、また本格的に伊勢神宮を含む全国の神社を吉田神社の統制下に置こうと考え始めた。
そこに、日野富子などからの寄付もあって、文明16年(1484年)に吉田神社の現在地に新たな社・斎場所大元宮を創建すると、11月24日に自邸から虚無太元尊神を遷座した。
主祭神虚無太元尊神の周りには、その虚無太元尊神の作用によって生じた天神地祇八百万大神の他、全国の神々を祀っている。この大元宮を拝むことは日本中の全ての神社を拝んだことに等しいとし、神社自体の格も伊勢神宮よりも上であるとした。
まさに吉田神道の考えをそのまま形に表した吉田神道の根元殿堂といえる。
さらに、天正18年(1590年)には後陽成天皇の勅命により宮中で祀られていた天皇の守護神である祭神8座(神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神)を祀る八神殿を大元宮の後方に遷座して祀ることとなり、その地位・権力は完全に伊勢神宮を上回るものとなった。しかし、明治となり1872年(明治5年)に八神殿は皇居に移されてしまった。
それ以降は、天皇家の祖先である天照皇大神を直接祀る伊勢神宮こそが日本で最上位の神社であるという国家神道が勢いを増す中で吉田神道の勢いは衰えを見せ、現在では大元宮は吉田神社のいち末社の扱いを受けるにいたっている。 (Wikipedia)
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参拝後、河原町方面に戻り、ミュンヘンで昼食
このポテトフライ最高(=^・^=)