YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2020年07月

旧石器捏造事件 発覚(2000年11月5日:毎日新聞)

最近・・・偶然観た解説動画で衝撃を受けて、約20年前のかすかな記憶がよみがえりました。
当時、この事件について、それほど衝撃を受けなかったのですが、あらためて事の重大さに気が付きました。
ということで先日、県立図書館で当時の記事を確認してきたのです。

長期間にわたり、捏造した本人が実行していた発掘中の地層に石器を埋めるという、大胆な行動には驚きますが、発掘グループのメンバーは捏造行動については全く知らなかったということになっています・・・懐疑的・・・。

【衝撃を受けた動画】
【ゆっくり歴史解説】黒歴史上人物「藤村新一(ゴッドハンド)」[前編]
https://www.youtube.com/watch?v=PfEYlu3UK4Q
【ゆっくり歴史解説】黒歴史上人物「藤村新一(ゴッドハンド)」[中編]
https://www.youtube.com/watch?v=SrA9HasFkkU
【ゆっくり歴史解説】黒歴史上人物「藤村新一(ゴッドハンド)」[後編]
https://www.youtube.com/watch?v=AMu3JkwyNY8

2000年11月5日 毎日新聞のスクープ記事↓
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2000年11月6日 山陽新聞の記事↓
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旧石器捏造事件(きゅうせっきねつぞうじけん) は、日本各地で「~
原人」ブームを巻き起こした日本の前期・中期旧石器時代遺物遺跡だとされていたものが、発掘調査に携わっていた考古学研究家藤村新一自ら事前に埋設した石器を自ら掘り出して発見したとする自作自演捏造だったと発覚した事件である。藤村は1970年代半ばから各地の遺跡で捏造による「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日毎日新聞朝刊にスクープされ、不正が発覚した。これにより日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の不祥事となり、海外でも報じられた。火山灰層の年代にのみ頼りがちであったことなど、旧石器研究の科学的手法による検証の未熟さが露呈された事件であった。
なお、縄文時代以降では明確な遺構地下掘削して造られており、の性格から直ちに真偽が判断可能なため、捏造は不可能である。

2000年11月の発覚当時、「捏造」を行っていた藤村新一は民間研究団体「東北旧石器文化研究所」の副理事長を務めていたが、彼が捏造を開始したのは1970年代にアマチュアとして、宮城県の旧石器研究グループ「石器文化談話会」に近づいた時からだった。同会は、日本における前期旧石器の存在の可能性をかねてより唱えていた芹沢長介東北大学教授の門下生・岡村道雄をリーダーとした考古学者らと藤村のような在野の考古学愛好者らから成る発掘調査チームだった。藤村は捏造発覚までの約25年間、周囲の研究者が期待するような石器を、期待されるような古い年代の土層[注 1]ローム層)から次々に掘り出して見せ、そのことによってグループにとって欠かせない人物として評価され、後に「神の手」と呼ばれるまでになった。また、そうした「考古学的大発見」を町興しや観光につなげたい地元関係者からも歓迎された。

しかし、「発見」された遺物の9割方は、彼自身の手によって表面採集されたり発掘されたものであり、他人の手によって発掘されたものは、彼があらかじめ仕込んでおいたものとされている。彼が掘り出して見せたり、埋められていた石器は、自らが事前に別の遺跡の踏査を行って集めた縄文時代の石器がほとんどであると考えられている。ただし、それらの遺跡は東北地方のどこかのはずだが、完全に追跡され、突き止められるには至っていない。捏造された「偽遺跡」は、宮城県を中心とし、一部北海道南関東にまで及んでいる。

毎日新聞のスクープで指摘されたのは、宮城県の上高森遺跡および北海道の総進不動坂遺跡だったが、彼のかかわった全ての遺跡について再点検が行われ、彼のかかわった「石器」の多くに発掘時の「がじり」[注 2]ではありえない傷や複数回にわたってと擦過した痕跡である「鉄線状痕」などが認められた。また一部の遺跡について再発掘が行われ、掘り残されていた捏造石器が発見されるに及び、捏造が確定するに至った。このため、上高森遺跡をはじめ、座散乱木遺跡馬場壇A遺跡高森遺跡など、多くの遺跡が旧石器時代の史跡としての認定を取り消されたりした[1]。 (Wikipedia)

大阪食べ歩き~摂津食文化探訪~【摂津大阪散歩5】

今回の大阪滞在中の食べ歩き記録~摂津食文化探訪~です

大阪城公園内の「千房」にて
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新大阪駅チキラーハウスのチキンラーメンソフト
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道頓堀の「だるま」にて
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道頓堀の「金龍ラーメン」にて
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新梅田食道街の「はなだこ」にて
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新梅田食道街の「えき亭」にて
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新梅田食道街の「Sakura」にて
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【摂津大阪散歩】終了

企画展示:織田軍団の諸将~大阪城天守閣~【摂津大阪散歩4】

翌日、甲府から大阪入りしたemiさんと合流して大坂城公園へ★
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炎天下の中・・・公園散策のついでに大阪城天守閣の企画展示を鑑賞しました。

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大物くずれ跡~畿内戦国史の分岐点~【摂津大阪散歩3】

JR伊丹駅から梅田経由で阪神電車の各駅停車に乗り換え、大物駅に到着。
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この阪神大物駅付近は、
細川政元死後における細川総領家(京兆家)の抗争等々(永正の錯乱)が、一応決着した戦い(大物くずれ)の跡地です。

大雨の中、大物駅北側の道を歩いて数分・・・・・・戦跡碑を確認しました。
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大物崩れ(だいもつくずれ)は、戦国時代初期の享禄4年6月4日1531年7月17日)、摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で行われた合戦。赤松政祐細川晴元三好元長の連合軍が、細川高国浦上村宗の連合軍を破った戦い。大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。

桂川原の戦いで敗れて近江に逃れた管領細川高国は、伊賀伊勢備中出雲を巡ったが救援を拒絶された。管領の権威が失墜した高国に援軍を差し向ける勢力が無い中で備前守護代の浦上村宗が要請に応じた。高国と村宗の関係は赤松氏の庇護下に在った足利義晴の身柄を拘束するなどの協力関係にあり、村宗は管領である高国の権勢を借りて播磨統一を果たしたいという野心があり、桂川原で敗北した窮状を打開したい高国との利害は一致していた。

享禄3年(1530年)7月に村宗の念願であった播磨統一を成し遂げると、今度は高国の宿願を果たすため、摂津へ侵攻、池田久宗(信正)が守備する池田城を翌享禄4年3月6日1531年4月3日)を陥落、翌3月7日には、京都を警護していた晴元派の木沢長政が突然の撤退、代わって将軍地蔵山城の高国の兵が京に侵攻、京奪回した。

堺公方側は、三好元長を総大将に立て直しを図り、三好軍1万5千と阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍8千が、摂津中嶋に陣取った細川・浦上連合軍を攻撃し(中嶋の戦い)一進一退の攻防が続いていた。

ここで播磨守護の赤松政祐が高国の援軍として同年6月2日に西宮の六湛寺に着陣したが、神呪寺(兵庫県西宮市)に陣変えを行い同日晩、高国と村宗から直々に着陣の挨拶をうける。

6月4日、神呪寺にいた赤松政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃したため、勝敗が決した。赤松政祐は以前から父・赤松義村の仇を討つために村宗を狙っていたのである。政祐は出陣する前から堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。この赤松軍の寝返りは細川軍の動揺をもたらし、浦上軍に従っていた「赤松旧好の侍、吾も吾もを神呪寺の陣へ加わり」(『備前軍記』)と寝返りを誘発した。

そのような状況で赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が攻撃をしかけたので、村宗を始め侍所所司代松田元陸伊丹国扶薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。中嶋の野里川は死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」(『細川両家記』)と書かれるほどの敗戦であった。

三好元長が前線に出てくる「中嶋の戦い」からの2ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃されたことによって打撃を受けた。

この結果、それまでの膠着状態から戦局が崩れて、高国の滅亡につながった。そこから地名とあいまって「大物崩れ」と呼ばれるようになった。 (Wikipedia)

伊丹・有岡城~荒木村重離反の地~【摂津大阪散歩2】

以前から機会が無く、訪ねる事ができなかったものの、今回は有岡城跡に行く時間が取れたので、伊丹駅前に降り立ちました★
【参考】戦国摂津の下克上 (中世武士選書)
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荒木村重が離反した原因は不明のようですが・・・・・・
詳細は「有岡城の戦い」を参照

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有岡城主郭部の一部はJR伊丹駅になっています。

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主郭部残存の有岡城跡へ

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織田軍の攻撃を一年にわたって耐えた有岡城でした。
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