YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2020年10月

門倉岬~鉄砲傳来紀功碑~【種子島紀行5】

宇宙科学技術館から南下して、種子島の南端部にある門倉岬へ!
ずいぶん以前、司馬遼太郎の街道をゆく「種子島みち」を読んでからというもの・・・長年気になっていた場所でした(=^・^=)
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門倉岬に到着!

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『鉄炮記』の内容

鉄炮記』によれば、天文12年8月25日1543年9月23日)、大隅国の種子島、西村の小浦に一艘の船が漂着した。100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったが、西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた儒者・五峯と筆談してある程度の事情がわかったので、この船を島主・種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らった。

この船は8月27日に赤尾木に入港した。時堯が改めて法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に異国の商人の代表者が2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。時堯は2人が実演し二火縄銃2挺を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。時堯が射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1挺持たせて送り出した。さらに残った1挺を複製するべく金兵衛尉清定刀鍛冶を集め、新たに数十挺を作った。また、からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った[1]

なお、このころ平戸五島列島を拠点に活動していた倭寇の頭領・王直の号は五峰[2]という。山冠の「」は山偏の「」の異体字であり(山部)、『鉄炮記』で筆談相手となった明の儒者・「五峯」の名は王直の号と同じである。(Wikipedia)

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門倉岬の東側の海岸・・・おそらくこの辺りに異国船が漂着したようです。

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南方方面。

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遠方には屋久島が見えます。

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ポルトガル海軍による記念碑☆

宇宙科学技術館~竹崎海岸と宇宙基地~【種子島紀行4】

翌日、見学予約をしていた種子島宇宙センターの施設『宇宙科学技術館』へ向かいました。
その前に、宇宙センター近くの竹崎海岸にも立ち寄り・・・(=^・^=)
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宇宙科学技術館(うちゅうかがくぎじゅつかん)は、種子島にある宇宙航空研究開発機構(JAXA)種子島宇宙センター内にある施設である。1979年昭和54年8月に宇宙開発展示館として開館した。その後、1997年平成9年3月26日に、「きぼう」日本実験棟(JEM)の実物大模型や宇宙情報センターを増設するなど一新され、名称も宇宙科学技術館に改められた。[1]2017年平成29年3月26日にも改装が行われ一新されている[2]。(Wikipedia)

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イトカワ(糸川、いとかわ、25143 Itokawa)は、太陽系小惑星であり、地球に接近する地球近傍小惑星(地球に近接する軌道を持つ天体)のうちアポロ群に属する。

イトカワは近日点が地球軌道の内側に入る、アポロ群の地球近傍小惑星である。地球軌道との最小距離が小さく、半径も160メートルあるため、潜在的に危険な小惑星 (PHA) にも分類されている。スペクトル型からS型小惑星に分類される[2]。日本の小惑星探査機工学実験宇宙機はやぶさ (MUSES-C)の目的地に選ばれ、2005年9月からの約1ヵ月半、はやぶさに搭載された可視光分光撮像カメラ、近赤外線分光器、レーザー高度計、蛍光X線分光器の4つの観測機器による詳細な探査が行われた。そして2005年11月には、イトカワ表面の岩石試料を採取して地球へ持ち帰るサンプルリターンを行うため、はやぶさは2度の着陸を行った[3]

イトカワは平均半径が約160メートル、長径500メートルあまりしかない小天体であり、これはこれまで惑星探査機が探査を行った中で最も小さな天体である[4]。はやぶさは2010年6月に地球へ帰還し、同年11月にははやぶさのカプセルコンテナ内にイトカワの微粒子が多数存在することが明らかとなり、その後イトカワの微粒子についての分析が進められている。

はやぶさによるイトカワの探査と地球へ持ち帰った試料から、これまで知られていなかった小さなサイズの小惑星について様々な知見がもたらされている。まずイトカワの質量と体積から考えて、内部の約40パーセントが空隙であると考えられ、イトカワは瓦礫を寄せ集めたようなラブルパイル天体であると考えられた。またイトカワの分光観測と岩石試料から、イトカワは普通コンドライトの中のLL4、LL5、LL6というタイプの隕石と同様の物質で構成されていることが判明した。そしてイトカワ表面の物質は宇宙風化を起こしていることが明らかとなり、地球上に落下する隕石の約8割を占める普通コンドライトの多くが、S型小惑星を起源とすることが明らかとなった。

また直径20キロメートル前後の母天体が大きな衝突によって破壊され、その瓦礫が再集積することによって現在のイトカワが形成されたと考えられること、重力が極めて弱いイトカワでは、表面の物質が惑星間空間に逃げ続けていると見られることなどが判明した。(Wikipedia)

赤尾木城跡と月窓亭~種子島家の痕跡~【種子島紀行3】

鉄砲館から移動して、近くの赤尾木城跡と種子島家旧邸の月窓亭に立ち寄りました(=^・^=)
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まずは城跡の一角にある鉄砲伝来時の島主:種子島時堯の像へ

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種子島時堯(たねがしま ときたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。種子島氏第14代島主。日本に最初にを導入し、国産化に導いた。 

享禄元年(1528年)、種子島氏第13代島主・種子島恵時の子として生まれる。

鉄炮記』によると、天文12年(1543年)、ポルトガル商人が乗った船が種子島に漂着した。この南蛮商人は、日本人がはじめて見る鉄砲を持っていた。16歳だった時堯は射撃の実演を見てその威力に着目し購入を決断する。そして時堯は購入した二挺のうち一挺を鍛冶職人八板金兵衛に調べさせて国産化を命じ、金兵衛は苦心の末に、日本人の手による銃の製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍足利義晴に献上)。伝来の場所から鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国期の日本の戦場に革命をもたらした。

父の恵時は鉄砲伝来当時存命中だったが、記録には主に時堯の名が出てくることから、既に実質的な家督継承が行われていたようである。また時堯は、島津忠良の娘を娶り、弘治元年(1555年)には島津貴久に従い大隅国攻めに参加した。正室との間には2人の娘を儲けた。特に次女の妙蓮夫人(円信院殿)は、貴久の嫡男・義久に後妻として嫁いだ。その一方で、島津氏と争っていた禰寝氏からも姫を密かに迎えて側室にし、男子が生まれたのをひた隠しにしていたが、これを知り怒った時堯夫人は、娘2人を連れて種子島を出て鹿児島に帰ってしまったという(その後、夫人は肝付兼盛に再嫁する)。この禰寝氏の娘との間に生まれたのが長男の時次で、次男の久時は黒木氏の娘との間に生まれた子である。

永禄3年(1560年)に家督を長男の時次に譲るが、永禄5年(1562年)に7歳で早世したため家督に復した。後に次男の久時が家督を継いだ。

天正7年(1579年)、死去。享年52。(Wikipedia) 

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ここに来たのは以前「街道をゆく・種子島みち」を読んだからなのです。

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そして、月窓亭で火縄銃を構える☆

鉄砲館~種子島開発総合センター~【種子島紀行2】

翌日、再び北部の西之表市に移動して、今回の旅の主目的「鉄砲鑑賞」にやって来ました(=^・^=)
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念願の種子島開発総合センター・・・通称「鉄砲館」に到着!

まずは名物のからくり解説(=^・^=)
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感動の種子島鉄砲伝来記を鑑賞しました★

そして、鉄砲関連展示品コーナーへ
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火縄銃以外もあり・・・

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とくに印象に残った七連発芥砲☆  鉄砲その他・・・充実した展示内容でした。

種子島へ~ジェットフォイル西之表行~【種子島紀行1】

今年の夏・・・コロナ禍の中、休暇の合間に種子島に行ってきました。その時の見聞を少しばかり綴ってみようかと(=^・^=)
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岡山で甲府から来訪したemiさんと合流して、新幹線さくらで鹿児島へ。
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そして、鹿児島港からジェットフォイルで種子島・西之表港へ渡ります!

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時化だったようで・・・船酔いで苦しみながら・・・なんとか種子島に上陸しました(T_T)

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種子島(たねがしま)は、九州鹿児島県に属し、大隅諸島を構成するの一つ。

鹿児島県にある有人離島の中で最も東に位置する。人口(29,282人)は県内では奄美大島に次いで2番目に多く、また、面積(444.30km2)は日本では10番目[1]、県内では奄美大島屋久島に次いで3番目に大きい。最高地点の標高は回峯(まわりのみね)の282.4 mで、海側から見ると殆ど平らにしか見えず、1,936 mある隣の屋久島と比べると対照的である。中心都市は西之表市
【歴史】

種子島でもっとも古い遺跡は、南種子町横峯遺跡鹿児島県指定史跡)、中種子町立切遺跡・大津保畑遺跡で、約3万5千年前(較正年代)の遺跡である。これらの遺跡は、鹿児島県内で最も古い遺跡である。また、旧石器時代に人類が生活をした数少ない離島の一つでもある。種子島では細石器文化も確認されていて、南種子町銭亀遺跡は、細石器文化が確認された日本列島最南端の遺跡である。

縄文時代の種子島では、九州島南部の縄文文化とほぼ同一の土器様式が確認されている。一方、弥生時代後期から7世紀にかけての種子島では、独自の貝文化が展開した。その種子島独自の貝文化を代表する遺跡として、南種子町広田遺跡(国の史跡)が著名であり、貝製品を中心とする広田遺跡の出土品は、国の重要文化財に指定されている。

8世紀になると、種子島は、律令国家の支配下におかれる(朝貢の記録自体は、『日本書紀』に7世紀末から見られる)。大宝2年(702年)に令制国として隣の屋久島も含めて多禰国(たねのくに)が置かれ、島北部に能満郡、南部に熊毛郡が設けられた。中央より国司が任じられ多禰国司として二島を支配した。

しかし多禰国は平安時代前期の天長元年(824年)に廃止され、能満郡は熊毛郡に統合し大隅国に編入された。鎌倉時代には見和氏肥後氏が支配し、室町時代以降には肥後氏の支族種子島氏がこの地を治めた。鉄砲伝来の地で、火縄銃の製作が始められた場所でもあったため、国産の火縄銃は種子島と呼ばれていた。
【現代】
種子島宇宙センター
など宇宙関連施設が多く建てられ、日本における宇宙開発の一翼を担っている。また、最近では多くのサーファーが移住し、マリンスポーツ
等も盛んに行われている。戦前より県内外からの移住者が多く、その出身元も多様。島の内陸部にある十六番や二十番という地名は、開拓番号がそのまま集落名になったものである。(Wikipedia)

そして、

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レンタカーを借りて、種子島南部の「いわさきホテル」に到着しました🚙 

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ホテルの近くには「象の水飲み岩」という景観☆     次回へ続く・・・
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