YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2020年11月

アクロス歴史文化カレッジ特別講演会 関西城郭サミット2020 in 飯盛城 飯盛城跡調査研究の到達点 YouTube配信

iimori1
iimori2
20200831185049

capture-20201122-062214
講演会資料より

capture-20201122-150941
偶然にも情報を得て、視聴可能に。
飯盛城の畿内における位置関係や重要性を認識することができました。

とっとり幻想の旅【因州鳥取カニツアー】

先日、松葉ガニ解禁を受けて、山陰の鳥取市を訪ねました(=^・^=)
コロナ禍の中、夜勤明けの弾丸かにカニツアーです☆
image0
岡山駅で甲府から来たemiさんと合流して北上します。因幡の国へ。

昼食は鳥取市の有名店で「親がに丼」
image1
味暦あんべ
鳥取県鳥取市弥生町175-2

image2
親がに丼「極」・・・\(^o^)/

昼食後は、
image3
鳥取駅前の「すなば珈琲」へ

image5
砂焼きコーヒーで休憩。

そして、夜は「松葉ガニフルコース」\(^o^)/
kani5
旬彩 こころび 本店
鳥取県鳥取市末広温泉町451

写真はコースの一部・・・
kani7

kani9

kani6

toto1

toto2

toto3

続いて、モダンバーにて・・・
kani1

toto4

kani2
香の森ジントニック

kani4
季節のフルーツカクテル

kani3
良い夜でした☆☆☆

翌日は鳥取砂丘へ
toto6



toto7

toto8
山陰鳥取もまた・・・GOTOトラベルの影響なのか、予想外に多い人出でした。

後日、、、、、
直送かろいち
鳥取賀露港から届いた松葉ガニを味わい、
ついにカニツアーは幻想のようになってしまいました・・・(ノД`)・゜・。

特別展「鞆幕府 将軍足利義昭~瀬戸内・海城・水軍~」&記念講演会「鞆幕府」論再考

昨日、11月8日のこと・・・
ひさしぶりに広島県福山市鞆町、すなわち備後国鞆の浦へ行ってきました(=^・^=)
瀬戸内海の中央にある港町・・・足利尊氏・足利直冬・足利義稙、そして足利義昭ゆかりの地です。
かつて鞆城があった場所にある「鞆の浦歴史民俗資料館」で特別展「鞆幕府 将軍足利義昭~瀬戸内・海城・水軍~」が開催されるという情報を得て長距離遠征を決意しました
加えて、藤田達生先生による特別展記念講演会 演題「鞆幕府」論再考にも当選したのです。

鞆の浦到着後、街並みを散策しつつ鞆城跡に到着。

鞆の浦歴史民俗資料館前(鞆城跡)からの眺望です。

鞆の浦周辺は、1925年に国の名勝鞆公園」に指定された。また、1934年3月16日に国立公園として初の[1]瀬戸内海国立公園に指定された。そのため、国立公園指定当時の記念切手や絵葉書には、鞆の風景が描かれているものがある。なお、鞆の浦に含まれる島には仙酔島、つつじ島、皇后島、弁天島、玉津島、津軽島がある。

瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から大伴旅人などによる万葉集に詠まれるように、古代より潮待ちの港として知られていた。また、鞆は魏志倭人伝に書かれる「投馬国」の推定地の一つともなっている。

1336年建武3年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中この地で光厳上皇より新田義貞追討の院宣を賜る。南北朝時代には鞆の浦沖から鞆にかけての地域で北朝南朝との合戦(鞆合戦)が幾度もあり、静観寺五重塔などの貴重な文化財が失われた。

戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど備後国の拠点の一つとなっていた。室町幕府15代将軍足利義昭は1573年に織田信長により京を追放された後、毛利氏などの支援のもと渡辺氏の援助で1576年に鞆に拠点を移し信長打倒の機会を窺った。伊勢氏上野氏大館氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り鞆に下向していたとされる。このことから「鞆幕府」と呼ばれることもある[7]。また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、幕末の歴史家頼山陽は“足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた”と喩えた。

尼子氏滅亡に際しては播磨国上月城より移送途中に誅殺された山中鹿之助の首級が鞆に届けられ足利義昭や毛利輝元により実検が行われた。この遺構として首塚が現在も残されている。(Wikipedia)

そして、特別展鑑賞へ!


tomo2
鞆幕府表
鞆幕府裏

資料館から講演会の会場へ移動。
tomo講演
約2時間におよぶ、充実した講演内容でした

tomo3
購入した特別展図録も素晴らしい内容・・・今後読み進めていく予定です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
追記・・・
鞆の浦へ向かう途中に見付けた海沿いの老舗喫茶店。
tomo6
tomo7
tomo9
ランチとともにコーヒーを頂きました★ 

天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」 (中公新書)

9784121022653
【内容情報】(「BOOK」データベースより)

織田信長の上洛から二〇年、豊臣秀吉により天下は統一された。集権化や実力主義を推進した信長と秀吉の政策はまさに「革命」であり、他の戦国武将と一線を画していたのである。本書はさらに、足利と織田、そして織田と豊臣の各政権が併存したことを指摘しつつ、軍事革命にともなうスペイン・ポルトガルの東アジア進出といった世界史的視野からも戦国日本を捉え直す。旧来のイメージを大胆に覆し、「革命」の本質に迫る。

【目次】(「BOOK」データベースより)
天下統一を問い直す/第1部 織田信長の天下(室町幕府の復興/二重政権ー鞆幕府と安土幕府/黎明期の革命)/第2部 豊臣秀吉の仕置(天下分け目の戦いー小牧・長久手合戦/西国平定戦と集権国家/東国・奥羽平定戦と天下統一)/天下統一がもたらしたもの

uuuu

鞆幕府講演当選
特別展および記念講演会に向けて読了★

黒駒合戦激戦場~天正壬午の乱の痕跡:笛吹市御坂町藤野木~【甲州芦川みち9】

翌日、河口湖の湖畔ホテル・花水庭おおや から北上。
新御坂トンネルを抜けて、国道137号線沿いに甲府へ帰ります。
その途中、笛吹市の御坂町藤野木付近・・・
かつて天正10年に起きた天正壬午の乱における「黒駒合戦」の跡地とされる場所に立ち寄りました。

【参考】河尻秀隆さかさ塚~天正壬午の乱の痕跡:甲府市岩窪町~【甲州散歩4】


御坂町藤野木付近・・・国道沿いの東側に、ひっそりと説明板があります。

PA110613
甲府方面
を見る

PA110614
河口湖方面を見る

PA110618
黒駒合戦の激戦場
国道沿いの説明板は誰にも注目されず、車が通行して行きます・・・・・・

藤野木

天正壬午の乱の解説
天正壬午の乱:解説図(大河ドラマ「真田丸」解説資料より)

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)3月に織田信長による甲州征伐での甲斐武田氏の滅亡と、そのわずか数カ月後の天正10年(1582年)6月に本能寺の変にて織田信長の死によって、統治不在混乱となった甲斐国信濃国上野国の支配を巡った争乱である。

徳川家康北条氏政北条氏直の争いを主とし、上杉景勝の他、旧武田氏遺臣(真田昌幸ら)も巡る広い範囲の争乱となった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。
・・・・・・・・・
(黒駒合戦)

上杉景勝との講和がなったことで、北条は徳川に戦力を向けることができるようになり、約4万の主力軍は南へ転進をはかる。さらに、北条氏忠北条氏勝ら1万を甲斐・御坂峠に張り付かせ、また北条氏邦にも秩父から甲斐を窺う体勢をとらせ、徳川1万を三方向から半包囲する形で信濃・甲斐への侵攻を始める。なお、御坂峠の北条1万には未だ房相一和が完全には破綻していなかった安房里見義頼も援軍を出している[13]

8月1日、諏訪・高島城を攻城していた酒井忠次ら3,000は北条の大軍が来るとの報に甲斐に向けて後退する。北条主力軍43,000は、佐久経由で酒井軍を追撃するが、徳川勢は甲斐・新府城への撤退に成功する。

これを追う北条勢も甲斐に入り若神子城北杜市須玉町若神子)に着陣し、8月6日には徳川勢と対峙した。家康は本陣を甲府城下の尊躰寺甲府市城東一丁目)においたが後に旧一条信龍屋敷(甲府市北新一丁目)に移転し、さらに8月8日には新府城(韮崎市中田町中條)へ移転した。10日に家康は南の府中の留守を鳥居元忠ら2,000に任せ新府城に陣を移し、徳川方は8,000となる。

8月12日、氏忠・氏勝勢10,000が家康の背後を襲うべく甲斐東部の郡内地方へ進撃した。これに対し、鳥居元忠、三宅康貞水野勝成ら2,000が黒駒付近(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)で果敢に応戦し、北条勢約300を討ち取って撃退した(黒駒合戦)。

依然、北条と徳川の兵力差は圧倒的なものであったが、この戦で北条方が敗北したことにより信濃諸将の北条離れが進んでいく。8月22日に木曾が家康側に寝返り、さらに9月に入ると真田が依田信蕃に加勢した。家康は依田と真田に曽根昌世らをつけて戦力を強化し、ゲリラ戦によって信濃・上野間の兵站を乱すようになる。(Wikipedia)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上、【甲州芦川みち】終了(=^・^=)

プロフィール

yamatetsu

記事検索
アーカイブ
  • ライブドアブログ