YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

2022年09月

坂本龍馬とその時代 (読みなおす日本史)

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最も有名な幕末の志士・坂本龍馬。薩長同盟・船中八策・大政奉還など、さまざまな功績を遺したとされているが、実際には何を成し遂げたのか。日本近現代史の大家が史料に基づきその実像に迫った決定版、待望の復刊!
龍馬とその時代

龍馬とその時代2
あらためて龍馬の生涯およびその時代(幕末)を読みなおす(=^・^=)
来月の京都における幕末展示に向けて・・・・・・↓
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講演会「水野勝成の生涯」と福山築城400年リニューアル天守閣

昨日、福山城の築城者「水野勝成」がテーマの公開講座とともに、
改修された天守閣を鑑賞・・・築城400年記念(=^・^=)
福山水野1

福山水野2

福山水野3
福山城天守(改修以前の説明)

元和8年(1622年)竣工の実質5重5階地下1階(計6階)の層塔型で築城時は4重目の屋根を桧皮葺(あるいは柿葺き)とすることで裳階と見なし、名目上は4重5階で建てられたという説がある。[22][21][23][注 6]。ただし、江戸中期までに4重目も葺きに改められ通常の5重天守と何ら変わらない姿となっている。天守の南側は天守の2重目の屋根と一体化した2重の付庇が備わり、その東側には付庇に連続した2重櫓が付随している。山並みが迫り防備上の弱点となっていた北面は砲撃への対策とされる(異説もある[注 7])厚さ3ミリメートル程度の鉄板が最上層を除いた壁面全体に張られていた。このため北側から見た天守は壁面が真っ黒なたたずまいであった。これは日本全国の天守にも類例がなく福山城天守で最大の特徴となっていたが再建された天守では再現されていない。

天守内部は全層で内側の柱(身屋部分)がすべて同じ位置に通されており、その周りを外壁面の柱が囲んで1層から5層まで1間ずつ逓減していた[4][注 8]。この逓減率の低さも福山城天守の大きな特徴で、天守台の面積は9×8間と近隣の広島城(13×11間)や岡山城(13×9間)などと比べても半分程度であるにもかかわらず、最上階は逆に5×4間と広島城(3×3間)・岡山城(3×3間)より大きかった。各層の破風は内部構造と無関係な装飾的なもので、その配置は徳川系の天守(江戸城大坂城二条城等)に準じていた[21][注 9]

このように、極めて規則的な構造を持ち“層塔型”の形式を体現するかのようにそびえ立つ福山城の天守は慶長期に発達した城郭建築技術の完成形といえるものである。多数の破風に加え最上階には廻縁や装飾的な華頭窓が付けられるなど、全くの実用本意というわけではなかった(しかし、廻縁や華頭窓は後に附加されたもので築城当初は純粋な層塔型天守であった可能性も指摘されている)[要出典][注 10][21][24]。最上階の廻縁には、時期は不明だが途中から風雨を防ぐ突上げ板戸が付けられ、焼失前まで福山城天守の大きな特徴のひとつとなっていたが、再建された天守では板戸は再現されていない。

福山城天守は廃城後も破却を免れ昭和6年(1931年)には天主建築の最終完成形として高く評され現在も残る姫路城天主や松本城天主などと同時に国宝に指定される。しかし、昭和20年(1945年)の福山大空襲で焼夷弾2発が命中して焼失した[注 11][25]。その後、天守の跡は焼き付いた石垣のみが残る姿となっていたが、昭和41年(1966年)に天守が鉄筋コンクリート構造により再建された。だが、古写真等の資料が比較的多く残っていたにもかかわらず、史実よりも現代的な美観が優先されたことや建築基準法に従ったことなどから[23]上記以外にも窓の形状や配置など多くの点が旧状と異なっている。そのため、第二次世界大戦で焼失したのち復興された天守[注 12]の中でも不正確な姿での再建となり、「復元天守」か「復興天守」かで見解が分かれている。建物内は福山市立「福山城博物館」として利用され藩政時代の文化財を常時展示し、特別展も年数回催されている。(Wikipedia)
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福山水野4

福山水野5

福山水野6

福山水野7
あらためて感じる勝成の魅力★

『ロッキーVSドラゴ:ROCKY IV』

かつて観た昔、よみがえる(ノД`)・゜・。(=^・^=)


ロッキーVSドラゴ 1

ロッキーVSドラゴ 2

定本 徳川家康

定本徳川家康A
家康の生涯を「本拠」東海地域を中心に描く。三河の統一から武田氏との攻防、小牧・長久手、関ヶ原、大坂の陣に至る道程、家臣団と諸大名の動向、政治戦略を詳細に叙述。相次ぐ新説も丁寧に検証した、家康論の決定版。
定本徳川家康c
三方原合戦から450年・・・その周辺に向けて「定本」を読了(=^・^=)

日中友好侵略史

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日本を赤く染める中国の工作に戦慄!
“国交正常化50年”の日本と中国。
台湾、そして日本に迫る秩序破壊者「中国」の姿を50年前に誰が想像しただろうか。
中国を育て、援助し、増長させた日本の過ちはどこから始まったのか。
70年前に始まった中国の「対日工作」は、ついにEEZ(排他的経済水域)内に弾道ミサイルをぶち込まれるほどのありさまとなった。一体、なぜ日本は中国にここまで舐められたのか。
中ソ対立でソ連からの核攻撃に備え、大都市では地下への避難訓練もおこなわれ、文化大革命という名の“内戦”で荒野となっていた中国に、事前調査もないまま乗り込んだ田中角栄首相と大平正芳外相。功名心に駆られた2人にはどんな工作が行われていたのか。また、その裏に存在した野党に対する緻密な工作とは何だったのか。
1950年代から始まっていた対日工作に日本はどう嵌(は)まり、その後、どんな道を歩んだのか。そこには日本を陥れる信じがたい手法が存在した。

●中国共産党と創価学会を結んだ「女流作家」
●ハニートラップで総理を“落とした”女性工作員
●対日工作を率いた「江戸っ子」中国人
●中国共産党の対日ブレーンは「元華族」
●「贖罪意識」に嵌められた田中・大平
●“自由と民主”の台湾を捨てた自民党の「政治屋」
●舐められるきっかけは最初の「国交正常化交渉」に
●先端技術者“獲得”に使う恐るべき手口

……等々、あらゆるルート、あらゆる手法を用いた中国の“友好”という名の「侵略」を明らかにする。
中国の侵略を防ぐには、中国のやり方を知ることだ。
安倍晋三氏が闘った「日本の現実」を浮き彫りにする国民必読の実名ノンフィクション。
日中友好侵略史2
百田尚樹チャンネル等で紹介されていて、衝動的に入手(=^・^=)

日中友好侵略史1
戦慄の侵略史・・・・・・
参考:
国防動員法 - Wikipedia
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