翌日、台風10号が接近する状況の中、紀伊半島を北上して大和国十津川村へ向かいました。
断続的な豪雨で、熊野川沿いを進行中には眼前を落石が・・・・・・・

なんとか辿り着いたのは、十津川村の名所:谷瀬の吊り橋附近の駐車場。
その駐車場には幕末史の痕跡・・・天誅組の碑があります。
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天誅組上野地本陣跡

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・・・幕府は紀州藩津藩彦根藩郡山藩などに天誅組討伐を命じた。9月1日、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下される。9月5日、忠光が吉村らに再度合流して天の辻の本陣へ帰った。諸藩の藩兵が動き出し、6日、紀州藩兵が富貴村に到着、天誅組は民家に火を放って撹乱した。7日、天誅組先鋒が大日川で津藩兵と交戦して、これを五条へ退ける。天誅組は軍議を開き大坂方面へ脱出することを策す。

8日、幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将である忠光の命令が混乱して一貫せず、兵達は右往左往を余儀なくされた。統率力を失った忠光の元から去る者も出始め、天誅組の士気は低下する。14日、紀州・津の藩兵が吉村らの守る天の辻を攻撃、吉村は天の辻を放棄した。忠光は天険を頼りに決戦しようとするが、朝廷は十津川郷に忠光を逆賊とする令旨を下し、十津川郷士は変心して忠光らに退去を要求する。19日、進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。

天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みるが、重傷を負っていた吉村は一行から落伍してしまう。24日、一行は鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と遭遇。那須信吾、宍戸弥四郎は忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死にした。翌25日には一度は敵の包囲網を逃れていた藤本鉄石が鷲家口に引き返して紀州藩本陣に奇襲をかけ、壮絶な激闘の末に討ち死にし、同じ頃、負傷して失明していた松本奎堂は逃亡中に紀伊藩兵に発見されて自刃した。一行から遅れていた吉村は27日に鷲家谷で津藩兵に潜伏先を急襲され、銃殺。他の兵達も相次いで捕縛、自首、戦死するなどして天誅組は壊滅。辛うじて生き残った者は各自散り散りになって逃亡したものの、幕府軍による追討は徹底的に続けられ、最終的に池内蔵太、石田英吉三枝蓊北畠治房などの僅かな者達だけが京、大坂などに逃れていった。

忠光は、自分を含め7人だけとなった本隊に守られながら、辛うじて敵の重囲を掻い潜る事ができ、27日に大坂に到着して長州藩邸に匿われた後、長州に逃れて下関に隠れていたが、禁門の変の後に長州藩の実権を握った恭順派(俗論党)によって元治元年(1864年)11月に絞殺された。 (Wikipedia)

いよいよ谷瀬の吊り橋を渡ります。
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吊り橋対岸には、大塔宮護良親王の痕跡。
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黒木御所跡

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元弘元年(1331年)10月末(?)大塔宮一行は皆、柿色法衣に笈を背負い頭巾を被り金剛杖を握り山伏の姿であった。一行の氏名は、赤松則祐・光林房玄尊祐・矢田彦七・木寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上義光片岡八郎・平賀三郎の9人であった。一行は熊野に向かうものの、熊野三山別当定遍僧都が幕府寄りであることから、大塔宮が熊野では幕府側に探索されている夢のお告げを得る。

一行は熊野から方向を変え半月を経て十津川村(奈良県吉野郡十津川村)に着き、玄尊が一軒の家を見つける。その屋敷は戸野兵衛と云い豪族竹原八郎宗親の甥の屋敷であった。 この家には病人がいて、大塔宮が祈祷をすると不思議と病が治った。その礼として一行はこの家に滞在する事になる。滞在から数日後に小寺相模は素性を打ち明けると仲間に加わり、竹原八郎は黒木御所の造営を開始する[注釈 6]十津川で大塔宮・尊雲法親王は還俗護良親王となった。

一行は十津川に約半年潜伏するが、熊野別当・定遍が恩賞目当てに五百騎で探索に来たことで、一行は吉野を目指し逃れる。途中で追いつかれるも、竹原八郎の甥の野長瀬六郎野長瀬七郎の兄弟の軍勢に助けられる。 (Wikipedia)

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日本史上、あらゆる事件に関わってきた十津川郷の情景を感じることができました。

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対岸へ戻り、熊野サイダーでのどを潤す(*´▽`*)