史跡探訪
翌日、敦賀から南下して滋賀県・北近江方面へ向かいます(=^・^=)
ずいぶん以前から気になっていた『賤ヶ岳の合戦』の古戦場へ・・・漸く訪ねることができました★
この合戦を制したことにより羽柴秀吉の覇権が確立したと言えるでしょう。柴田勝家方は与力武将の離反等で不運が連続した印象ですが、それもまた必然か。
【参考】
柴田勝家 - 織田軍の「総司令官」 (中公新書) : YAMATETSU見聞録
清須会議 秀吉天下取りへの調略戦 (シリーズ・実像に迫る) : YAMATETSU見聞録
【合戦解説】賎ヶ岳の戦い 羽柴 vs 柴田 〜 織田家を我が物にしたい羽柴秀吉とそれを阻止したい柴田勝家がついに激突する 〜


敦賀発新快速にて

帰りは琵琶湖の東側、北陸本線経由

近江塩津で乗り換え

木ノ本着・・・駅から土日限定運行のシャトルバスで賤ヶ岳山麓へ



賤ヶ岳リフトを利用
【公式】賤ヶ岳リフト | 滋賀県長浜市の絶景が一望できるリフト

リフトの終点から山頂への炎天下登山




賤ヶ岳山頂到着!


余呉湖方面

琵琶湖方面

木之本町方面



猛暑ながらも天候に恵まれた賤ヶ岳を下山
ずいぶん以前から気になっていた『賤ヶ岳の合戦』の古戦場へ・・・漸く訪ねることができました★
この合戦を制したことにより羽柴秀吉の覇権が確立したと言えるでしょう。柴田勝家方は与力武将の離反等で不運が連続した印象ですが、それもまた必然か。
【参考】
柴田勝家 - 織田軍の「総司令官」 (中公新書) : YAMATETSU見聞録
清須会議 秀吉天下取りへの調略戦 (シリーズ・実像に迫る) : YAMATETSU見聞録
【合戦解説】賎ヶ岳の戦い 羽柴 vs 柴田 〜 織田家を我が物にしたい羽柴秀吉とそれを阻止したい柴田勝家がついに激突する 〜


敦賀発新快速にて

帰りは琵琶湖の東側、北陸本線経由

近江塩津で乗り換え

木ノ本着・・・駅から土日限定運行のシャトルバスで賤ヶ岳山麓へ



賤ヶ岳リフトを利用
【公式】賤ヶ岳リフト | 滋賀県長浜市の絶景が一望できるリフト

リフトの終点から山頂への炎天下登山




賤ヶ岳山頂到着!


余呉湖方面

琵琶湖方面

木之本町方面



猛暑ながらも天候に恵まれた賤ヶ岳を下山
8月14
翌日、仙台駅から仙山線で北仙台駅へ(=^・^=)
北仙台駅から徒歩数分、光明寺の支倉常長墓所に向かいます★
【参考】
慶長遣欧使節: 伊達政宗が夢見た国際外交 (歴史文化ライブラリー ) : YAMATETSU見聞録
仙台市博物館~伊達氏の歴史および新収蔵品展と慶長遣欧使節関係資料~【南奥州紀行②】 : YAMATETSU見聞録





支倉常長の墓

ルイス・ソテロの顕彰碑
ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年9月6日 - 1624年8月25日)は、スペイン帝国セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。
1613年(慶長18年)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8年)、長崎に密入国したが捕らえられる。この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した。
1867年にローマ教皇ピウス9世により列福された。
キリスト教の布教に大変熱心な宣教師であったが、それ故に「聖なる偽り」(布教のために嘘をついたり、他者を欺くような行為をすること)も多く、彼が残したり或いは語ったとされる史料は信憑性に疑問があるともされる[3]。(Wikipedia)

北仙台駅から徒歩数分、光明寺の支倉常長墓所に向かいます★
【参考】
慶長遣欧使節: 伊達政宗が夢見た国際外交 (歴史文化ライブラリー ) : YAMATETSU見聞録
仙台市博物館~伊達氏の歴史および新収蔵品展と慶長遣欧使節関係資料~【南奥州紀行②】 : YAMATETSU見聞録





支倉常長の墓

ルイス・ソテロの顕彰碑
ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年9月6日 - 1624年8月25日)は、スペイン帝国セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。
1613年(慶長18年)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8年)、長崎に密入国したが捕らえられる。この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した。
1867年にローマ教皇ピウス9世により列福された。
キリスト教の布教に大変熱心な宣教師であったが、それ故に「聖なる偽り」(布教のために嘘をついたり、他者を欺くような行為をすること)も多く、彼が残したり或いは語ったとされる史料は信憑性に疑問があるともされる[3]。(Wikipedia)

阿武隈川を渡り徒歩数分、かつて伊達稙宗の居城となった丸森城跡へ(=^・^=)
【参考】
戦国武将列伝1東北編 : YAMATETSU見聞録
伊達氏と戦国争乱 (吉川弘文館) : YAMATETSU見聞録

丸森城跡







伊達 稙宗(だて たねむね)は、陸奥国の戦国大名。官位は従四位下・左京大夫。伊達氏14代当主。伊達政宗の曾祖父。
天文元年(1532年)に居城を梁川城(現・福島県伊達市)から西山城(現・福島県桑折町)に移すと体制の強化に努め、天文2年(1533年)に『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、天文4年(1533年)の『棟役日記』、天文7年(1538年)の『御段銭帳』などの徴税台帳を作成。天文5年(1536年)には171条に及ぶ分国法『塵芥集』を制定し、伊達氏の統治機構の拡充を図った。




【参考】
戦国武将列伝1東北編 : YAMATETSU見聞録
伊達氏と戦国争乱 (吉川弘文館) : YAMATETSU見聞録

丸森城跡







伊達 稙宗(だて たねむね)は、陸奥国の戦国大名。官位は従四位下・左京大夫。伊達氏14代当主。伊達政宗の曾祖父。
天文元年(1532年)に居城を梁川城(現・福島県伊達市)から西山城(現・福島県桑折町)に移すと体制の強化に努め、天文2年(1533年)に『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、天文4年(1533年)の『棟役日記』、天文7年(1538年)の『御段銭帳』などの徴税台帳を作成。天文5年(1536年)には171条に及ぶ分国法『塵芥集』を制定し、伊達氏の統治機構の拡充を図った。
ところが、三男・実元の越後国守護・上杉定実への入嗣や、婿の相馬顕胤への伊達領割譲などの問題をめぐって長男・晴宗や桑折景長・中野宗時ら家臣団との対立を次第に深める、天文11年(1542年)6月、ついに鷹狩りの帰途を晴宗に襲撃され、捕えられた稙宗は西山城に幽閉されたが、程なくして小梁川宗朝により救出された。稙宗は奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で天文の乱が勃発する。この争いは当初稙宗方が優勢だったが、天文16年(1547年)に味方であった蘆名盛氏が晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾き、天文17年(1548年)9月、13代将軍・足利義輝の仲裁を受けて晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居することを余儀なくされた[13]。6年に及ぶこの乱の影響で、従属下にあった大崎・葛西・最上・相馬・蘆名の各氏は乱に介入して伊達家に対する発言力を増し、従属関係を脱した。また、実際には弘治になっても晴宗との対立は収まらなかったとする説もある[14]。
永禄8年(1565年)6月19日、丸森城にて死去[15]。(Wikipedia)




8月14
同慶寺~相馬氏歴代墓所~【南奥州紀行⑧】 : YAMATETSU見聞録
に続き、同慶寺から歩いて相馬小高神社へ(=^・^=)ここは、かつての相馬氏本拠地:小高城跡です★










小高駅に戻り北上、原ノ町駅で乗り換え仙台へ

相馬駅手前付近

阿武隈川を渡る
に続き、同慶寺から歩いて相馬小高神社へ(=^・^=)ここは、かつての相馬氏本拠地:小高城跡です★










小高駅に戻り北上、原ノ町駅で乗り換え仙台へ

相馬駅手前付近

阿武隈川を渡る
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