続いて、訪問後に世界遺産になった佐渡金山へ(=^・^=)
【参考】
地霊を訪ねる もうひとつの日本近代史 : YAMATETSU見聞録



















両津方面への帰路は、

佐渡金山跡から大佐渡スカイラインを抜け

国仲平野を望む
【参考】
地霊を訪ねる もうひとつの日本近代史 : YAMATETSU見聞録



















両津方面への帰路は、

佐渡金山跡から大佐渡スカイラインを抜け

国仲平野を望む
史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~
正和3年(1314年)従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。宋学を好み、宮廷随一の賢才と謳われた。文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位後も院司として引き続き花園院に仕えていたが、元亨元年(1321年)に後宇多院に代わり親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという[1]。花園は資朝の離脱を惜しみつつも、能力のある人物には適切な官位を与える後醍醐天皇の政策のもとなら、それほど身分の良いとは言えない資朝でも羽ばたけるだろうか、と後醍醐と資朝に一定の期待をかけている。
元亨4年9月19日(1324年10月7日)、鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らと共に捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、有罪とも言えないが無罪とも言えないとして、佐渡島へ流罪となった(正中の変)。元弘元年(1331年)に天皇老臣の吉田定房の密告で討幕計画が露見した元弘の乱が起こると、翌元弘2年/正慶元年(1332年)に佐渡で処刑された。(Wikipedia)