YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

赤松氏の軌跡

臨済寺(赤松義則墓所)~播州探訪・夢前町④~

浄安寺から北上して、夢前町北部の臨済寺へ(=^・^=)
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静寂な雰囲気・・・

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臨済寺説明1
臨済寺説明2
姫路市HPより

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別峯国師の墓

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赤松義則の墓(宝篋印塔)
赤松則祐の子として生まれる。家督相続前から将軍足利義満に仕えて活動しており、応安4年(1371年)8月27日に石清水八幡宮の造営奉行に任命された[4]
応安4年11月29日1372年1月13日)、父・則祐の死により家督を継ぐ。義満より偏諱を受けて義則と名乗る[注釈 1]永和5年(1379年)2月29日、義満の命令を受けて土岐頼康を攻撃し、その功績で同年に侍所別当に任命された(『東寺文書[5])。康暦2年(1380年)には弥勒寺本堂[注釈 2]を再建している。

元中3年/至徳3年(1386年)9月、叔父の氏範が南朝方として摂津にて挙兵すると、義則は幕命によりその討伐に従っている。氏範が自害した後、義則はその遺骸を引き取って清水寺に葬った。

元中5年/嘉慶2年(1388年)、侍所所司に任じられ四職家のひとつになり幕政に参与する。[6]

明徳2年(1391年)の明徳の乱では弟の満則と共に幕府軍の一翼を担い、山名氏清討伐で大いに武功を挙げた。これにより翌年、将軍・足利義満から山名義理領であった美作国を与えられた。また戦死した満則の功績に対して摂津中島郡も与えられている(『明徳記[7])。義則の代に赤松氏播磨国備前国、そして美作を領する有力守護大名に発展した。

応永2年(1395年)6月に義満が出家したのに伴い、義則も出家したという。また拡大した領国の支配体制の整備に努めた。応永6年(1399年)11月の応永の乱では京極高詮らと共に大内義弘を攻めて武功を挙げた。応永9年(1402年)2月17日に侍所別当を辞任しているが、6年後の12月に再任した。義満の没後は後継者の義持に仕えて幕府宿老として重きを成し、義持も応永20年(1413年)2月16日や応永22年(1415年)3月26日など、確認できるだけで4回も赤松屋敷に渡御している。

応永34年(1427年)9月21日、70歳で死去[注釈 3]。跡を嫡男の満祐が継いだ。

ちなみに義則は身体が極端に小さかったため、出家後は赤松三尺入道と称された。後継の満祐も三尺入道と呼ばれている。(Wikipedia)

臨済寺石塔

浄安寺宝篋印塔(赤松義村供養塔)~播州探訪・夢前町③~

松安寺墓石群から移動して、浄安寺へ(=^・^=)

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墓地の一角には赤松義村の供養塔があります。

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赤松義村の宝篋印塔

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松安寺墓石群(赤松晴政・義祐)~播州探訪・夢前町②~

置塩城から下山して、歴代赤松氏の墓所を巡ります(=^・^=)
赤松氏系図
【参考:系図写】
赤松氏五代 弓矢取って無双の勇士あり(ミネルヴァ日本評伝選)
備前浦上氏(中世武士選書)
宇喜多直家・秀家 西国進発の魁とならん(ミネルヴァ日本評伝選


松安寺墓石群入口
住宅街の一角にある墓石群への入口

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彷徨いながら墓石群を視認!

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赤松義祐の五輪塔

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赤松晴政の五輪塔

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晴政妻の五輪塔

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樹間の光を浴びる地蔵菩薩

置塩城跡~播州探訪・夢前町①~

2021年の秋・・・
以前から播州国内の未訪地で気になっていた置塩城跡。
赤松氏関連の書籍を読了したあと、
初めてのひとり温泉旅館宿泊を兼ねて姫路市夢前町へ🚙

【参考】
赤松氏五代 弓矢取って無双の勇士あり(ミネルヴァ日本評伝選)
備前浦上氏(中世武士選書)
宇喜多直家・秀家 西国進発の魁とならん(ミネルヴァ日本評伝選


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置塩城跡への登山口

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熊よけ鈴を付けて🐻

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案内図


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本丸跡到着

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本丸跡の瓦破片・・・中世の痕跡

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本丸から南方を望む

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瀬戸内海と家島群島が見えます。

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下山後、山麓の櫃蔵神社へ

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絵馬
絵馬群を鑑賞して次の目的地へ。

赤松満祐邸跡~前代未聞!将軍義教弑逆の地~【京都夏歩記2】

続いて、
御金神社から西洞院通を北上して二条通の目的地へ向かいます。

時は嘉吉元年(1441)6月24日
場所は京都・・・洛中の中心部
赤松満祐邸で起きた前代未聞の惨劇!
宴席で斬殺される6代将軍足利義教!
修羅場と化す赤松邸!

いわゆる「嘉吉の乱」
このような大事件が起きた場所でありながら
痕跡はもとより石碑等も皆無ですが、
以前から気になっていました。

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代嘉吉元年(1441年)に播磨備前美作守護赤松満祐室町幕府6代将軍足利義教暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれる。
6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招いた。『嘉吉記』などによると、「の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」[1]と招いたという。
この宴に相伴した大名は管領細川持之畠山持永山名持豊一色教親細川持常大内持世京極高数山名熙貴細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家の正親町三条実雅正親町三条公治の父、義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行している。
一同が猿楽を観賞していた時、にわかにが放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたった。癇性な義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えた。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。
酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名達の多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑う[2]。山名熙貴は抵抗するがその場で斬り殺された。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去した。公家の正親町三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。(Wikipedia)

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『建内記』嘉吉元年6月24日より

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『日本歴史地名体系27 京都市の地名』より

ということで、
図書館で確認した上記資料を参考にして現地へ
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赤松邸(推定位置)

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西洞院通(右)と二条通(左)

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夷川通かつての冷泉通(右)と西洞院通(左)

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槌屋町・・・この辺りが赤松邸中心部・・・感慨にひたりました。

将軍義教斬殺後、幕府討伐軍は赤松氏領国の播磨を攻略・・・そして、赤松満祐の首は京都に戻り、赤松邸に梟首されました。⇒【参考】将軍義教の首

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