後鳥羽上皇伝説
続いて、村上家から隠岐神社へ(=^・^=)






承久3年(1221年)、承久の乱によって隠岐へ配流された後鳥羽天皇(配流時は法皇)は、当地の源福寺を行在所とし、旧在庁官人で海士郡の公文、田荘両職を兼帯した村上氏が身辺警護と監視にあたっていたともいわれている[1]。19年後の延応元年(1239年)2月22日に崩御して同25日に源福寺裏山で火葬にされ、遺灰を埋納して火葬塚を営んだ。万治元年(1658年)、松江藩主松平直政が廟殿を造営し、明治まで維持に努めたが、明治2年(1689年)に廃仏毀釈の影響で源福寺は廃寺(後に復興された)。海士町後鳥羽院資料館に所蔵される絵図(江戸末期の様子)には、この火葬塚の場所に「後鳥羽院神社」(創建不詳)が描かれており、江戸末期には、島民によりここで祭祀が行われていたといわれている。しかし、1873年(明治6年)、法皇の御霊を大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に奉遷したため、1874年(明治7年)に後鳥羽院神社も取り払われた[1]。なお、神社が取り払われての後も、祭祀が続けられていたといわれる。後に、この神社を中心とした旧源福寺境内地は、後鳥羽天皇の隠岐の御陵「御火葬塚」とされた。(Wikipedia)




先日、11月13日のこと・・・倉敷市林の熊野神社へ。
頼仁親王墓(後鳥羽天皇皇子)の訪問以降・・・・・・
以前から行こうと考えつつ、後回しになっていた後鳥羽上皇の供養塔を訪ねてきた(=^・^=)
昨年は承久の乱800周年記念であったにもかかわらず、コロナ禍等々の事情で隠岐に行くことが
できず・・・
今年は大河ドラマ:鎌倉殿の13人で、もうすぐ承久の乱が始まるというタイミングをきっかけにして倉敷の供養塔を訪ねることに。
訪問前に蔵書の記事を振り返り、現地では供養塔周辺の幽玄な雰囲気を感じることができた★



















五流尊瀧院(ごりゅう そんりゅういん)は岡山県倉敷市林に所在する修験道の寺院。本尊は十一面観音。天台修験系の一宗派である「修験道」の総本山である。
修験道の祖と言われる役小角(役行者)は文武天皇3年(699年)朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された(続日本紀)。役行者について正史が伝えることは以上であるが、伝承によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在の熊野神社の地に紀州熊野本宮を遷座し、5人の高弟それぞれが尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。中でも尊瀧院が中心寺院となった。(Wikipedia)
頼仁親王墓(後鳥羽天皇皇子)の訪問以降・・・・・・
以前から行こうと考えつつ、後回しになっていた後鳥羽上皇の供養塔を訪ねてきた(=^・^=)
昨年は承久の乱800周年記念であったにもかかわらず、コロナ禍等々の事情で隠岐に行くことが
できず・・・
今年は大河ドラマ:鎌倉殿の13人で、もうすぐ承久の乱が始まるというタイミングをきっかけにして倉敷の供養塔を訪ねることに。
訪問前に蔵書の記事を振り返り、現地では供養塔周辺の幽玄な雰囲気を感じることができた★



















五流尊瀧院(ごりゅう そんりゅういん)は岡山県倉敷市林に所在する修験道の寺院。本尊は十一面観音。天台修験系の一宗派である「修験道」の総本山である。
修験道の祖と言われる役小角(役行者)は文武天皇3年(699年)朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された(続日本紀)。役行者について正史が伝えることは以上であるが、伝承によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在の熊野神社の地に紀州熊野本宮を遷座し、5人の高弟それぞれが尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。中でも尊瀧院が中心寺院となった。(Wikipedia)
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