神武天皇東征伝説
南紀新宮に到着後、ホテルで自転車を借りて市街地を散策。
まずは新宮市街地にある神社へ向かいます。
主目的は「神武天皇聖蹟碑」への訪問ですが、
神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑~大阪天満宮~【京阪紀行2】 以来の聖蹟碑となりました。
まずは新宮市街地にある神社へ向かいます。
主目的は「神武天皇聖蹟碑」への訪問ですが、
神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑~大阪天満宮~【京阪紀行2】 以来の聖蹟碑となりました。
1939年(昭和14年)5月の第二回総会で、36件を調査することを決定し、調査が行われた。
その結果、18件19箇所を決定し、場所に応じて、伝説地・推考地などの称をつけた。橿原宮と竃山は既に聖蹟として、認められているとして改めて指定することはしなかった。
過去何度も論議を引き起こした高千穂宮についてはついに不明のままとなった。
01神武天皇聖蹟橿原宮
02神武天皇聖蹟竃山
03神武天皇聖蹟菟狭推考地
04神武天皇聖蹟崗水門
05神武天皇聖蹟埃宮・多祁理宮伝説地
06神武天皇聖蹟高嶋宮伝説地
07神武天皇聖蹟難波之碕
08神武天皇聖蹟盾津推考地
09神武天皇聖蹟孔舎衛坂伝説地
10神武天皇聖蹟雄水門伝説地
11神武天皇聖蹟男水門伝説地
12神武天皇聖蹟名草邑推考地
13神武天皇聖蹟狭野
14神武天皇聖蹟熊野神邑
15神武天皇聖蹟菟田穿邑
16神武天皇聖蹟菟田高倉山伝説地
17神武天皇聖蹟丹生川上
18神武天皇聖蹟磐余邑推考地
19神武天皇聖蹟鵄邑
20神武天皇聖蹟狭井河之上推考地
21神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤伝説地
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%81%96%E8%B9%9F







徐福伝説の痕跡が残る地でもあります。

神武天皇聖蹟熊野神邑









徐福伝説の痕跡が残る地でもあります。

神武天皇聖蹟熊野神邑


11月9
神武東征(東遷)の伝説地に動きがあるようです★

美々津の街並みを抜けて耳川河口にやってきました。
この地は「神武天皇東征における出港の地」・・・現在は立磐神社となっています。

立磐神社
神武天皇はこの日の昼に出航の予定だったが、風向きが変わったため早朝に繰り上げ、「起きよ、起きよ」と家々を起こして回った。このことから、旧暦8月1日には起きよ祭りが開かれる。時間がなかったので着物のほつれに気づいても直す暇がなく、立ったまま縫わせた。そのためこの地を「立縫いの里」と呼ぶ。住人たちは出航に合わせて餅を作る予定をしていたが、急遽、小豆と餅米を一緒について渡した。これを「お船出団子」と言い、今に至るまで美々津の名物となっている。



神武天皇御腰懸磐




この地から大和へ・・・東征伝説に想いを馳せたのでした。

耳川河口から遥か大和を望む。

これは宿泊したホテルに展示されている出航時の船「おきよ丸」です★
八紘一宇の塔 の山を下り、かつての神武天皇の皇居跡に到着。この場所には宮崎神宮の摂社:皇宮神社があり、神武天皇東征の出発地を「皇軍発祥の地」として建立された記念碑があります。
静寂な森の中には神秘的な社殿がひっそりと・・・。


皇宮屋(こぐや)とは神武天皇御東遷前の皇居跡と伝わるところで、現在は宮崎神宮の摂社に列する皇宮神社が鎮座しております。神武天皇は、諸県の高原郷の狭野原(現在の高原町の狭野)でご誕生になり、皇太子となる15歳の時、宮崎へお移りになり その後、東征に向かう45歳までお過ごしになったといわれています。ここは、今の宮崎神宮の地に宮居なさる以前の宮居の地、もしくは行宮の跡であったのではなかろうかと云われております。




「皇軍発祥之地」・・・記念碑の高さは12メートル。



杉山 元 (すぎやま げん/はじめ、1880年(明治13年)1月1日 - 1945年(昭和20年)9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将、陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。福岡県出身。
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