YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

日本史

日本史の新常識

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【内容情報】(出版社より)
かつて、鎌倉幕府の成立は「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」と習いましたが、最近の教科書では「いいはこ(1185)つくろう鎌倉幕府」と教えています。ほかにも近年の研究で、従来の日本史の常識が次々と覆されています。古代、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸、幕末、明治……。日本史の転換点となった出来事や時代をつくった人物について、出口治明、本郷和人、伊東潤、鹿島茂、倉本一宏ら28人の執筆陣が最新の研究成果をもとに新たな論点を提示する一冊です。
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
日本史の転換点となった出来事や時代をつくった人物について、最新の研究成果をもとに新たな論点を提示。一流の執筆陣が32の謎を解き明かす。
【目次】(「BOOK」データベースより)
序章 通史(交易から見れば通史がわかる)/第1章 古代(「弥生人」の大量渡来はなかった/前方後円墳がピラミッドより大きいワケ ほか)/第2章 奈良、平安(東大寺大仏建立は宗教改革だった/長屋王の変ー悲劇の王の「私生活」 ほか)/第3章 鎌倉、室町(鎌倉幕府成立年は一一八〇年が妥当だ/北条政子「子殺し・孫殺し」の修羅 ほか)/第4章 戦国、江戸(応仁の乱は「東軍」が勝った/「汁かけ飯」北条氏政はバカ殿ではない ほか)/第5章 幕末・明治(倒幕の雄藩がなぜ「松平姓」なのか/坂本龍馬は殺人の「指名手配犯」だった ほか)


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特に元寇の神風有無が気になって読んでみました★


蒙古襲来絵詞

博多訪問に向けて蒙古襲来絵詞を読了★
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蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)は、筆者不明の全2巻の絵巻物竹崎季長絵詞蒙古襲来絵巻[1]とも。鎌倉時代後期の作で、肥後国御家人竹崎季長元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっており、東京都千代田区皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に保管されている。(Wikipedia)

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鳥飼潟の戦い:文永の役において、が飛び交い、てつはうが炸裂する中をモンゴル帝国高麗王国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵

竹崎家衰退後、大矢野家に伝えられた。季長を中心に元寇での実戦の様子が描かれており、元側の軽装兵や軍船、使用した「てつはう」などが描かれた唯一の画像史料として知られ、歴史の教科書にはまず載っている。
ストーリーは、前巻は季長が8名の郎党を率いて文永の役に出陣して戦い、その後、一番駆けの武功に対する恩賞が出ないことを不服として鎌倉へ赴き、安達泰盛と直談判を行って恩賞地と馬を与えられる様子が描かれ、後巻では、海東郷の地頭として出世を果たした季長が弘安の役に出陣して戦う様子が描かれており、末尾には家訓とともに「永仁元年二月」(1293年)の日付が記されている(「永仁」への改元は同年8月)。
なお、絵巻物自体は中世のものと考えられているが、蒙古兵と日本騎馬武者の描写の違いなどから、後世の加筆、改竄、または編纂があったとする説も提唱されている。特に、季長と対峙する3人の蒙古兵(上の画像)は同じ絵巻の他の蒙古兵と装備や絵のタッチが明らかに異なり、またこの部分の紙が上下にずれて貼り合せてあるのに絵はずれておらず、近世に加筆されたと考えられており、九州国立博物館の文化交流展示室ではこの説が紹介されている。一方、後世の加筆や改竄ではなく、季長自身の指示による追加・手直しとの見方もある(大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』)。 (Wikipedia)

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御厨海上合戦:弘安の役

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奮戦する竹崎季長:弘安の役

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奮戦する元軍兵士:弘安の役

岡山の狛犬~特別陳列:岡山県立博物館~

岡山県立博物館で狛犬の陳列をしているとのことで、鑑賞してきました★
特に津山市にある高野神社蔵の平安時代の獅子と狛犬【重要文化財】は印象深いものです!
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蒙古の襲来

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)
承久の乱で地歩を固めたかにみえた鎌倉北条家だが、前将軍藤原頼経らが幕府に対して謀反、しかし五代執権時頼に京に追われた。時頼は北条専制を推し進める中、僧日蓮は他宗派を批判、国難を予言して幕府から弾圧される。しかし、時頼の子の八代執権時宗の時代、元寇という蒙古の襲来にみまわれる。傑作『蒙古来る』の背景を描く。
【目次】(「BOOK」データベースより)
1 京のこと鎌倉のこと(経時の執権就任と将軍の廃立/後嵯峨帝の譲位とその人物 ほか)/2 日蓮と鎌倉の諸仏教その他(日蓮の修業時代とその開宗/説法・折伏 ほか)/3 国難来(宗尊廃せらる/東亜のあらし ほか)/4 蒙古来(文永の役/亀山上皇の祈願 ほか)


最近、気になっている元寇・・・蒙古の襲来・・・今年中に博多の「元寇史料館」に行きたいので、その導入として読了しました★

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「蒙古の襲来」の図説より
チンギス・カンが率いるモンゴル帝国が勃興すると、第2代カンのオゴデイは他のカンから卓越した存在として「カアン(ハーン)」を称することになる。しかし広大すぎた版図をまとめることは難しく、朝を盟主とする緩やかな連合として3つのハン国に分裂した。なお、現在ではこの「元と3ハン国の分裂」という理解は、実情を反映したものとはいえないとして、大元ウルス、フレグ・ウルス、ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルスなど「ウルス」(モンゴル語で「人々」「国家」の意)と呼ばれることも多い。
「カン/ハン(qan)」は「皇帝」という意味の「カガン/カアン/ハーン(qaγan)」とは違い、皇帝より格下の「王」という意味である。モンゴル帝国では皇帝号(カアン)を帯びる元朝以外の政権(ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルスフレグ・ウルスなど)は汗号(カン)を用いた。 (Wikipedia)

伊予の戦国時代~岡山県立博物館~

先日、岡山県と中四国各県の交流展示に行ってきました。今回は愛媛県との交流で、「伊予の戦国時代」です★
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平成18年度より始まった中四国の県との文化交流事業は、平成30年度から愛媛県歴史博物館と交流を行います。初年度は、戦国時代に伊予国を治めた戦国大名河野氏を中心に、同国内にいた戦国武将たちの事績を取り上げます。天正年間に土佐国の戦国大名長宗我部元親に対抗した様子を知ることのできる史料も含め、伊予国での戦国時代の状況について紹介しますhttp://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kenhaku/schedule.htm#kouryuten

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以前から少々・・・伊予の守護・戦国大名:河野氏の最後の当主となった河野通直が気になっていました。

河野 通直(こうの みちなお)は、伊予国戦国大名河野氏最後の当主。
先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏一条氏長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。
通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際、通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。
通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。養子に迎えた宍戸元秀の子・河野通軌が跡を継いだ。 (Wikipedia)

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